「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二の母 セキの思い

2013-02-27 00:03:16 | 多喜二と同時代を生きた人々

「然し、私としては多喜二の思想がどうあろうと、多喜二は私にとって切っても切れぬ骨肉、かけがえのない相続人なのです。それが今捕えられて冷たい刑務所に日の光も浴びずにいるかと思うと、可哀そうで可哀そうで、羽があったら飛んで行って抱きしめたい衝動にかられ、居ても立ってもいられないほどです。あの親思いの多喜二のこと、私がこんなに心配しているのと同じく、多喜二も屹度私達のことを心配して、毎日毎日淋しい独房の中で呻吟(しんぎん)していることでしょう。どうぞ一日も早く娑婆へ出られますようにと、唯神仏におすがりするより外なく、その頃の私は一夜として満足に眠れたことはありません。

(小林多喜二の兄妹)
 その内に漸々秋も近づいて来ました。海鳴りの音を聞いても、電線にひゅうひゅうと秋風が鳴っているのを聞いても、すぐ心に浮かぶのは多喜二のこと、今頃はどうしているか、風邪でも引かぬか、誰か差入れでもしてくれているのか、火の気のない独房の寒さ、それらのことを思うと矢も楯もたまらず夜なべをしながら厚く綿を入れた布団を作り、それを三吾に持って行って貰うことにしたのです。三吾が上京したのは十月下旬、十一月の初めに多喜二と会うことが出来て、その差人物が多喜二の手に届いたのは私の思いが叶ったと云うもの、その当時改造社の佐藤績さんに宛てた手紙が、その佐藤さんから頂いて私の手元にありますので、お目にかけましょう。」
(注)三吾が上京したのは十月下旬と記されているが、九月中旬に上京し豊多摩刑務所で多喜二と面会している。

小林多喜二の佐藤績宛て獄中書簡より

「ぼくは此処を出てゆくまでに、実にものしりになっているようです。バルザックと佐々本邦がごっちゃになったり、コルビュジエと物価指数の統計と隣りあったり、経済史とチェホフが仲よく笑ったり、終いにどうなるのか、自分でさえも分らなくなります。ぼくはまだ生れてから、この位たて続けに、本を貪(むさぼ)ったことを知りません。


(あり日の多喜二)
 忙しいでしょう。文壇の様子でもハガキでお知らせ下さい。

 此処では、ぼくは毎日古田松陰のように坐っています。
夜、寝ると、然し、ぼくは自由に小樽の街を散歩したり、あなた達と議論したりします。これは、ぼくをこの上もなく幸福にします。北の国に残してきた年老いた母は、それに、厚い、巾の広い蒲団を送ってくれたので、ぼくは何時でも夜を待っています。

 

(この手紙は二十日間かゝつてあなたの手に入ります。そして、それに対して、若しあなたがお返事を直ぐ下すっても、それは、又二十日かゝつて、ぼくの手に入るのです。面白いでしょう

            十一月二十二目


  私にも「ふとん」には忘れられぬ思い出が
1962年、私の就職が決まり上京する時に、母が「なにがほしい」というので「ふとんを作って」とたのみ作ってもらいました。私の生活には欠かせぬ大切な物でした。結婚してから、ふとんの裏打ちに出したのですが、後で、布団屋さんが「綿をうっていたら手紙らしき紙がはいっていたんです」ということでしたが、その手紙は私には戻りませんでした。残念でなりませんでした。しばらく経ってから母に「手紙に何を書いてあったのか教えて」とたのみましたが、母は笑っていただけで教えてくれませんでした
 その「ふとん」がセキさんと母をダブらせてしまうのです。

 

=通夜のセキの姿=
 窪川いね子さんの「大衆の友」からの一文から

「お母さんは小林の苦痛のあと、敵の迫害の跡を探すように力を入れて撫でた。
 絶えず口を衝いて出るお母さんの悲憤は、また並居る我々の感情であった。が、お母さんの声は我々の胸をしめつけた。
 お母さんは襟をかき合せてやり、今度は額を撫で、髪の毛をかき上げて、その小林の額を抱えて『それ、もう一度立たぬか、みんなのためもう一度立たぬか』


(通夜の席の同志たち)
  そう言って自分の頬を小林の頬に押しつけてこすった。自分で生んで、自分で育てた母親の愛情で同志小林の死顔を抱えて率直に頬をすり合せた。
 押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつツ、おつツと声を上げっづけた。」


多喜二の思想について

「多喜二の小説はそうした社会政策を20年も前に実施しなければならぬと叫んだ内容と思うのですが、それが時の政府の反感を買ったのですから、今思えば変なものです。今日になって多喜二の考え方は正しいものであったとはっきり認識せられます。


(治安維持法下の社会でも小林多喜二全集は発行された)
 何もかも多喜二の思っていた通りの世の中になったと私は心ひそかに喜んでいるのです。
 前にも申し上げました通り、私はいたって楽天家で、あまり物事にあまり屈託しない方であり、多喜二没後以来随分と世間に対し肩身の狭い思いをしてきたのですが、そうかと云って、それがために卑屈になるような考えは毛頭なく、いつも呑気に、そして「天は自ら助くるものを助く」という恪言を信じて、平安な気持ちで今日まで過して来たのです。ですから私は、世間の御隠居さまのように年をとったら安楽に、美味いものを食べて絹布にくるまって、厚い座布団に座ってお茶を飲んだり、女中に脚腰を揉ませたりするような欲望は更になく、人間というものは死ぬまで働くものだという信条の下に、斯うして毎日モンペを穿いて宵掻きもすれば、煙突掃除も手伝うことを苦にしないのでございます。春になると畑へ出るのが何よりの楽しみ
で、南瓜や馬鈴薯や、野菜なぞ、私が先頭になって作るのです。これは私は若い時から色々と苦労したお蔭で、従ってまずいものでも有難く頂き、辛い仕事も辛いと思わないで体を動かしているのです。
 佐藤夫婦ヽ幸田夫婦の外、数年前には末子のゆき子も、三吾もそれぞれ結婚し、孫の数も大分殖えましたっ娘のお産の干伝にも次から次へと廻っています」

太陽は総てのものを平等に照らす

「私はむつかしいことは知りませんが、世間の人が幸福になって自分も幸福を受け、他人の喜ぶ顔を見るときは本当に自分も心から嬉しくなるものだということを信じているのです。

小林多喜二文学館)
太陽は、総てのものを平等に照らして下さいます。多喜二達同志の主義も新しく生れ変った日本で、色々と国民の問に研究して頂いていると云うことは有難いことです。その主義を好む、好まないは人様の自由ですから、嫌いなものを強いる必要はありませんが、お上の弾圧もなく自由に論議され、研究される世の中になったことは結構なことだと存じます。これからの日本人は屹度良い方へ、良い方へと延びていくことでしょう」

                        

  =小林セキの詩=

 

当初、口絵として用いられる予定だったセキの詩は、次のようにルーズリーフに毛筆で丹
念に書かれている。

  あーまたこの二月の月かきた     ああ、またこの二月の月が来た。

  ほんとうにこの二月とゆ月か      本当にこの二月という月が

  いやな月 こいをいパいに       嫌な月、声を一杯に

  なきたい どこいいてもなかれ     泣きたい どこへ行っても泣かれない。

  ない あー てもラチオで        ああ でもラジオで

  しこすたしかる             少し助かる

  あーなみたかてる           ああ涙が出る

  めかねかくもる            眼鏡がくもる


 


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