有島武郎から多喜二に受け継がれた苦悩
小説『カインの末裔』『或る女』などの代表作で知られる有島は『白樺』派の作家のひとりであるとともに、日本プロレタリア文学の源流の一人でもあると思う。しかし、プロレタリア文学家は有島と初期プロレタリア文学とのを脱落させることが多い、白樺派研究者においてもしかり。
それでは有島の苦悩は救われない。
有島の旅の航跡をたどってみる。
・第一は「アメリカ留学とヨーロッパへの旅」である。
有島がアメリカのハーバーフォード大学とハーバード大学に留学し、それに合わせて半年ほどヨーロッパにも滞在した。
・とくにアメリカ留学時代に有島はキリスト教を信仰することに失望し、「相互扶助」精神に傾いていく。
彼のキリスト教への失望は、それまで人格にかかわって尊敬してきた考え方に対する失望でもある。その時期に日露戦争があり、これをきっかけにアメリカ人たちが日本に対して興味本位的な見方をしていることに失望の原因があった。
有島は図書館通いなどをして懸命に勉強し、友人の金子喜一によって社会主義思想を紹介され、ホイットマンやイプセン、トルストイ、ゴーリキーなどの作品を読み、無政府主義者のクロポトキンがロンドンに亡命していることを知って面会に行く。その対面を通じてクロポトキンの「相互扶助論」に自分の思想が発芽するのを感じる。有島の、ニセコ農場を小作に無償解放するという彼の人間解放の思想を実践する端緒を、このであいに知ることができる。
1922(大正11)年ごろに、早くも「相互扶助」による理想社会の実現を自分の思想とした有島は、国の農地改革がおこなわれた(1949昭和24年の27年前に実践していた先達でもあるにしても、当時としては、クロポトキンによって教唆された有島の「相互扶助」の考えとその実践は一般にはとても理解しにくいものだった。
・有島が農場解放宣言の時にまとめた言葉の一部を書いた掛け軸、「相互扶助」と書いた横額がある。
もうひとつ、わずか半年というヨーロッパ滞在のなかで、弟の画家・有島生馬がイタリアに留学していましたので、彼の芸術家仲間とも多くの交流があった。そのことがまた、スイス旅行へとつながり、「あなたは私の生命の一部分」という言葉で書簡を送ったスイス人女性のティルダ・ヘックとのかかわりも生まれる。スイス滞在はわずか一週間と短いものだった。しかし、彼
はスイスのことを「夢の国」と表現しており、この一週間に莫大な収穫を得て、彼の人生観を確実なものにしていく時期であったようだ。
・第二は、帰国後の有島の心の旅路とである。
有島は日本に戻ってから兵役につき、そのあと母校の札幌農学校の教授となった。私生活のうえでも、1916(大正5)年に妻の安子と、父の武が相次いで亡くなるという多難な時期を過ご
す。それと同時に、ティルダとも書簡を通じてのかかわりがずっとつづく。わずか一週間というスイス滞在中の交流が、その後15年もの文通期間につながっていく。
●『宣言一つ』
有島武郎は大正デモクラシーのなかで、しだいにプロレタリア文学に惹かれていく。だがプロレタリア文学を目指そうにも自らが有産階級 (ブルジョワジー) にいる身ではうまくいかない。そのなかで書いたのが『宣言一つ』である。プロレタリア文学運動にどのようにかかわろうとしたのかについての有島武郎の思索と苦悩の到達点であった
クロポトキンに会って確実に自分のものとなった相互扶助の思想は、父の存命中は長男としての役割があって実行することはできなかったが、いつ実行するかの時期をはかっていた期間でもありました。その一方で、のちにともに自殺の相手となる波多野秋子とのかかわりも生まれた。
「労働者はクロポトキン、マルクスのような思想家をすら必要とはしていないのだ。かえってそれらのものなしに行くことが彼らの独自性と本能力とをより完全に発揮することになるかもしれないのだ。
それならたとえばクロポトキン、マルクスたちのおもな功績はどこにあるかといえば、私の信ずるところによれば、クロポトキンが属していた (クロポトキン自身はそうであることを厭 (いと) ったであろうけれども、彼が誕生の必然とし
て属せずにいられなかった) 第四階級 (プロレタリアのこと・筆者) 以外の階級者に対して、ある観念と覚悟とを与えたという点にある。マルクスの資本論でもそうだ。労働者と資本論との間に何のかかわりがあろうか。思想家として
のマルクスの功績は、マルクス同様資本王国の建設に成る大学でも卒業した階級の人々が翫味 (がんみ) して自分たちの立場に対して観念の眼を閉じるためであるという点において最も著しいものだ」
「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、
立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと
同様であるだろう。したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほかはあるまい。世に労働文芸というようなものが主張されている。またそれを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の
階級者が発明した文字と、構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるものを描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法とをもって、文芸的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分け
る。私はそうした態度を採ることは断じてできない」
有島武郎は、大正10 (1921) 年、プロレタリア文芸誌『種蒔く人』に参加、講演会を行うが警察に干渉され実行することはできなかった。プロレタリア文学の金字塔『種蒔く人』が発刊されたのは、翌大正11 (1922) 年である。
同1922年7月、彼が相続した狩太(現ニセコ町)の有島農場を解放するため小作人を集め、無償解放することを宣言する。
「この土地のすべてを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するようにお願いするのです。その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類いのものは人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けら
れねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。諸君にこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況を変化する結果となることを祈ります」(高山
亮二著『有島武郎とその農場・農団』)。
この一文はさらにつづく。
「農民たちは、有島のいうことを十分理解できなかった。が〈もう年貢はいらない〉という現実だけは直感できた。彼らは転ぶように弥照神社の階段を駆け降りた」と。それが喜びであったか、何であったか…。 ただ、有島はその3年前から小作料は受け取っていなかったのです。
・1923年6月、有島は軽井沢の別荘で波多野秋子とともに自殺する。
世間一般では愛の絶頂で死んだ情死という見方をしていますが、後に述べる灌漑用水溝事件の28日後だった。自分の理想によって実践した農場解放が思わぬ方向を見せたことに対する苦しみもうかがうことができるだろう。
・第三部「有島のとった行動と、それらに対する評価を考える」
有島の作品とその自殺行為への世評は厳しいものだった。、自殺したあと彼の作品は、教科書から外されてしまう。有島にかかわる問題として、灌漑用水溝に関連した補助金詐取の裁判事件がある。農場解放を受けた農民は、1924年に狩太共生農団を結成して自治運営をはじめ
るが、その前に灌漑用水池の工事費として受けた補助金を別の目的に流用したということで訴えられた。農団のリーダーで管理人であった吉川銀之丞が有罪判決を科せられた。そこには、有島に対する一種の弾圧が裏に隠されているのではないかという疑惑も浮かぶ。「昭和」とい
う時代を目前にして、思想弾圧とファシズムの影が迫っていたともいえる。ちなみに銀之丞は、事件の償いを1943年ごろには完全返済をしている。
有島が彼の思想を確立していった大正デモクラシーの時代は、一方でファシズムなどによる弾圧が世界的に押し寄せる時代でもあった。そんな中で、「相互扶助」という理念をもって行動することは並大抵のことではなかったのだろう。
伊豆利彦は、『平和新聞』(2001年8月)アンチミリタリストの立場 (題言)で、以下の通り、小牧近江らによって一九二一年二月に創刊された『種蒔く人』(1921年12月号)に社論として無署名の「非軍国主義の論理」と題して
僕たちは国と国との戦争には絶対に反対する。それが、いついかなる場合であろうと。
何故か、国と国の戦争に参加することは、今の場合、直接に僕たちの手で国境を同じ うする仲間を殺すことだ。そして僕たちは常に誰れのために戦いつつあるか。
と、原日本国憲法9条に通ずる理念を掲げて、さらに
第二次『種蒔く人』 第1巻第1号には、<非軍国主義号>と題して、武者小路実篤の「戦争はよくない」という詩を発表している。
「俺は殺される ことが/嫌いだから/人殺しに反対する、」「他人は殺されてもいいと云う人間は/自分は殺されてもいいと云う人間だ、/人間が人間を殺してもいいと云うことは/決してあり得ない。」
との詩を掲載し戦争反対の姿勢を示した。
執筆陣には有島武郎ばかりか、長谷川如是閑、吉江喬松(孤雁)、小川未明、川路柳虹など幅広い知識人も加わり、毎号表紙に<批判と行動>のタイトルをかかげて、平和とヒューマニズム、自由と進歩のための行動を呼びかけた。しかし、この 第二次『種蒔く人』 は、1924年9月
の関東大震災まで刊行されて終刊。その志は『文藝戦線』誌に引き継がれた。また、 小林多喜二が小樽で始めた同人雑誌『クラルテ』も、この雑誌の強い影響を受けたばかりか、多喜二の代表作のひとつ「不在地主」「防雪林」は、直接に有島武郎の文学精神を受け継いだものだといえる。
伊豆利彦は先の論の結びに(プロレタリア文学は)「武者小路実篤らの人道主義的信念を基盤としながら、国家と人民、国 家と戦争の関係を科学的に解明し、反戦平和の運動を、社会主義的な人民解放の運動と結びつけて、新しい時代を切りひらく戦いの先頭に立ったのである。」としている。
大正末の有島武郎の苦悩は、戦争とファシズムの時代の多喜二らプロレタリア文学者に引き継がれ敗北し、戦後民主主義教育を受けたわたしたちに、いま受け継がれている。
※関連資料
・有島武郎における〈開拓地/植民地〉文学――「迷路」から「カインの末裔」へ―― 尾西康充 (『有島武郎
研究』第11号(2008年3月)
・『フロンティアの文学』 (「『種蒔く人』『文芸戦線』を読む会」)
・有島武郎と『種蒔く人』 須田久美(『有島武郎研究』第9号 2006年3月)
・有島武郎のクロポトキン訪問の期日と場所――ロンドンでの調査の報告と若干の考察―― 植栗 彌 第二号
(『有島武郎研究』第2号1998年11月)
・須田久美 『金子洋文と『種蒔く人』―文学・思想・秋田 』(冬至書房 2009/01)
小説『カインの末裔』『或る女』などの代表作で知られる有島は『白樺』派の作家のひとりであるとともに、日本プロレタリア文学の源流の一人でもあると思う。しかし、プロレタリア文学家は有島と初期プロレタリア文学とのを脱落させることが多い、白樺派研究者においてもしかり。
それでは有島の苦悩は救われない。
有島の旅の航跡をたどってみる。
・第一は「アメリカ留学とヨーロッパへの旅」である。
有島がアメリカのハーバーフォード大学とハーバード大学に留学し、それに合わせて半年ほどヨーロッパにも滞在した。
・とくにアメリカ留学時代に有島はキリスト教を信仰することに失望し、「相互扶助」精神に傾いていく。
彼のキリスト教への失望は、それまで人格にかかわって尊敬してきた考え方に対する失望でもある。その時期に日露戦争があり、これをきっかけにアメリカ人たちが日本に対して興味本位的な見方をしていることに失望の原因があった。
有島は図書館通いなどをして懸命に勉強し、友人の金子喜一によって社会主義思想を紹介され、ホイットマンやイプセン、トルストイ、ゴーリキーなどの作品を読み、無政府主義者のクロポトキンがロンドンに亡命していることを知って面会に行く。その対面を通じてクロポトキンの「相互扶助論」に自分の思想が発芽するのを感じる。有島の、ニセコ農場を小作に無償解放するという彼の人間解放の思想を実践する端緒を、このであいに知ることができる。
1922(大正11)年ごろに、早くも「相互扶助」による理想社会の実現を自分の思想とした有島は、国の農地改革がおこなわれた(1949昭和24年の27年前に実践していた先達でもあるにしても、当時としては、クロポトキンによって教唆された有島の「相互扶助」の考えとその実践は一般にはとても理解しにくいものだった。
・有島が農場解放宣言の時にまとめた言葉の一部を書いた掛け軸、「相互扶助」と書いた横額がある。
もうひとつ、わずか半年というヨーロッパ滞在のなかで、弟の画家・有島生馬がイタリアに留学していましたので、彼の芸術家仲間とも多くの交流があった。そのことがまた、スイス旅行へとつながり、「あなたは私の生命の一部分」という言葉で書簡を送ったスイス人女性のティルダ・ヘックとのかかわりも生まれる。スイス滞在はわずか一週間と短いものだった。しかし、彼
はスイスのことを「夢の国」と表現しており、この一週間に莫大な収穫を得て、彼の人生観を確実なものにしていく時期であったようだ。
・第二は、帰国後の有島の心の旅路とである。
有島は日本に戻ってから兵役につき、そのあと母校の札幌農学校の教授となった。私生活のうえでも、1916(大正5)年に妻の安子と、父の武が相次いで亡くなるという多難な時期を過ご
す。それと同時に、ティルダとも書簡を通じてのかかわりがずっとつづく。わずか一週間というスイス滞在中の交流が、その後15年もの文通期間につながっていく。
●『宣言一つ』
有島武郎は大正デモクラシーのなかで、しだいにプロレタリア文学に惹かれていく。だがプロレタリア文学を目指そうにも自らが有産階級 (ブルジョワジー) にいる身ではうまくいかない。そのなかで書いたのが『宣言一つ』である。プロレタリア文学運動にどのようにかかわろうとしたのかについての有島武郎の思索と苦悩の到達点であった
クロポトキンに会って確実に自分のものとなった相互扶助の思想は、父の存命中は長男としての役割があって実行することはできなかったが、いつ実行するかの時期をはかっていた期間でもありました。その一方で、のちにともに自殺の相手となる波多野秋子とのかかわりも生まれた。
「労働者はクロポトキン、マルクスのような思想家をすら必要とはしていないのだ。かえってそれらのものなしに行くことが彼らの独自性と本能力とをより完全に発揮することになるかもしれないのだ。
それならたとえばクロポトキン、マルクスたちのおもな功績はどこにあるかといえば、私の信ずるところによれば、クロポトキンが属していた (クロポトキン自身はそうであることを厭 (いと) ったであろうけれども、彼が誕生の必然とし
て属せずにいられなかった) 第四階級 (プロレタリアのこと・筆者) 以外の階級者に対して、ある観念と覚悟とを与えたという点にある。マルクスの資本論でもそうだ。労働者と資本論との間に何のかかわりがあろうか。思想家として
のマルクスの功績は、マルクス同様資本王国の建設に成る大学でも卒業した階級の人々が翫味 (がんみ) して自分たちの立場に対して観念の眼を閉じるためであるという点において最も著しいものだ」
「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、
立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと
同様であるだろう。したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほかはあるまい。世に労働文芸というようなものが主張されている。またそれを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の
階級者が発明した文字と、構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるものを描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法とをもって、文芸的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分け
る。私はそうした態度を採ることは断じてできない」
有島武郎は、大正10 (1921) 年、プロレタリア文芸誌『種蒔く人』に参加、講演会を行うが警察に干渉され実行することはできなかった。プロレタリア文学の金字塔『種蒔く人』が発刊されたのは、翌大正11 (1922) 年である。
同1922年7月、彼が相続した狩太(現ニセコ町)の有島農場を解放するため小作人を集め、無償解放することを宣言する。
「この土地のすべてを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するようにお願いするのです。その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類いのものは人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けら
れねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。諸君にこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況を変化する結果となることを祈ります」(高山
亮二著『有島武郎とその農場・農団』)。
この一文はさらにつづく。
「農民たちは、有島のいうことを十分理解できなかった。が〈もう年貢はいらない〉という現実だけは直感できた。彼らは転ぶように弥照神社の階段を駆け降りた」と。それが喜びであったか、何であったか…。 ただ、有島はその3年前から小作料は受け取っていなかったのです。
・1923年6月、有島は軽井沢の別荘で波多野秋子とともに自殺する。
世間一般では愛の絶頂で死んだ情死という見方をしていますが、後に述べる灌漑用水溝事件の28日後だった。自分の理想によって実践した農場解放が思わぬ方向を見せたことに対する苦しみもうかがうことができるだろう。
・第三部「有島のとった行動と、それらに対する評価を考える」
有島の作品とその自殺行為への世評は厳しいものだった。、自殺したあと彼の作品は、教科書から外されてしまう。有島にかかわる問題として、灌漑用水溝に関連した補助金詐取の裁判事件がある。農場解放を受けた農民は、1924年に狩太共生農団を結成して自治運営をはじめ
るが、その前に灌漑用水池の工事費として受けた補助金を別の目的に流用したということで訴えられた。農団のリーダーで管理人であった吉川銀之丞が有罪判決を科せられた。そこには、有島に対する一種の弾圧が裏に隠されているのではないかという疑惑も浮かぶ。「昭和」とい
う時代を目前にして、思想弾圧とファシズムの影が迫っていたともいえる。ちなみに銀之丞は、事件の償いを1943年ごろには完全返済をしている。
有島が彼の思想を確立していった大正デモクラシーの時代は、一方でファシズムなどによる弾圧が世界的に押し寄せる時代でもあった。そんな中で、「相互扶助」という理念をもって行動することは並大抵のことではなかったのだろう。
伊豆利彦は、『平和新聞』(2001年8月)アンチミリタリストの立場 (題言)で、以下の通り、小牧近江らによって一九二一年二月に創刊された『種蒔く人』(1921年12月号)に社論として無署名の「非軍国主義の論理」と題して
僕たちは国と国との戦争には絶対に反対する。それが、いついかなる場合であろうと。
何故か、国と国の戦争に参加することは、今の場合、直接に僕たちの手で国境を同じ うする仲間を殺すことだ。そして僕たちは常に誰れのために戦いつつあるか。
と、原日本国憲法9条に通ずる理念を掲げて、さらに
第二次『種蒔く人』 第1巻第1号には、<非軍国主義号>と題して、武者小路実篤の「戦争はよくない」という詩を発表している。
「俺は殺される ことが/嫌いだから/人殺しに反対する、」「他人は殺されてもいいと云う人間は/自分は殺されてもいいと云う人間だ、/人間が人間を殺してもいいと云うことは/決してあり得ない。」
との詩を掲載し戦争反対の姿勢を示した。
執筆陣には有島武郎ばかりか、長谷川如是閑、吉江喬松(孤雁)、小川未明、川路柳虹など幅広い知識人も加わり、毎号表紙に<批判と行動>のタイトルをかかげて、平和とヒューマニズム、自由と進歩のための行動を呼びかけた。しかし、この 第二次『種蒔く人』 は、1924年9月
の関東大震災まで刊行されて終刊。その志は『文藝戦線』誌に引き継がれた。また、 小林多喜二が小樽で始めた同人雑誌『クラルテ』も、この雑誌の強い影響を受けたばかりか、多喜二の代表作のひとつ「不在地主」「防雪林」は、直接に有島武郎の文学精神を受け継いだものだといえる。
伊豆利彦は先の論の結びに(プロレタリア文学は)「武者小路実篤らの人道主義的信念を基盤としながら、国家と人民、国 家と戦争の関係を科学的に解明し、反戦平和の運動を、社会主義的な人民解放の運動と結びつけて、新しい時代を切りひらく戦いの先頭に立ったのである。」としている。
大正末の有島武郎の苦悩は、戦争とファシズムの時代の多喜二らプロレタリア文学者に引き継がれ敗北し、戦後民主主義教育を受けたわたしたちに、いま受け継がれている。
※関連資料
・有島武郎における〈開拓地/植民地〉文学――「迷路」から「カインの末裔」へ―― 尾西康充 (『有島武郎
研究』第11号(2008年3月)
・『フロンティアの文学』 (「『種蒔く人』『文芸戦線』を読む会」)
・有島武郎と『種蒔く人』 須田久美(『有島武郎研究』第9号 2006年3月)
・有島武郎のクロポトキン訪問の期日と場所――ロンドンでの調査の報告と若干の考察―― 植栗 彌 第二号
(『有島武郎研究』第2号1998年11月)
・須田久美 『金子洋文と『種蒔く人』―文学・思想・秋田 』(冬至書房 2009/01)
”有島武郎と心中相手、書簡相手7通発見”
作家有島武郎(1878~1923)と心中相手の雑誌記者波多野秋子が、死の半年ほど前からやりとりした手紙など7通の書簡が見つかり、札幌市の北海道文学館で公開さている。許されぬ関係に悩む二人の心情が赤裸々につづられ、心中に至るそれぞれの内面をたどる上で貴重な資料だ。(吉住琢二)
*1923年(大正12年6月)長野県軽井沢別荘にて、妻に先立たれていて独身の有島(45歳)と、夫のいる秋子(29歳)が心中。
有島の苦悩を詳しく追ってみたいと感じました。それにしても、現実に打ち当たることでキリスト教から脱却していく文学者は少なくないですよね。
そういえば
学生のころ、吉永小百合が与謝野晶子役、松田優作が有島武郎役、池上希実子が波多野秋子役の映画を観たことがありました。
映画では、なぜか有島と晶子が恋人関係なのですが、有島はもう一人のあきこ(秋子)とも関係を持ち、バイクに乗ってサイドカーに秋子を乗せて何かの集会(忘れてしまいましたが、アナーキストの集会??夜に外で人々が集まっていました。)に雄叫びをあげて現れたり、破れかぶれな有島を思わせるような場面もあったように思います。
映画の中の、北海道の大空の下の農場解放は、とても雄大なイメージで、小作人は驚きながらも大喜び、という感じだったように記憶していますが、実際は小作人と有島の間には理解はなく、その後の裏から手をまわしたような当局の弾圧により小作人が有罪となったりしたのですね。現実はシビアだと思いました。自分の中の正義を貫くことが、社会のなかで裏目に出たりと難しいですが、行動に出た有島には感動を覚えます。
「宣言一つ」も、有島のプロレタリア文学運動への潔癖な姿勢を感じて心が動きました。また、クロポトキンやマルクスは、労働者にとってというより、有産階級の人々に影響を与える、という考えにも一理あるなと思いました。
そういえば。。。ホリエモンが「新資本論」という本を出したそうですね(笑)。