「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

『多喜二全集』収録の志賀宛ての書簡

2009-12-06 00:31:40 | 多喜二研究の手引き
『多喜二全集』収録の志賀宛ての書簡をたどろう。 

『白樺』を廃刊し京都に移った▽志賀直哉宛の多喜二の手紙(1924年1月)は、直哉(42歳作)『雨蛙』の読後感に触れている。
 ―すっかりご無沙汰してしまいました。貴方の「雨蛙」、貪るように読みました。私が如きものが読後感を書くなんて、僭越の限りですが、貴方の作品の最も熱心な読者の一人の言葉として、お聞き流しください。
二回目に中央公論の終わりに書いた読後感をちっとも直さずに書きます。「作者が如何にも人生のある事実に対して、善意に見ようとしている態度がみえる。それと、もう一つは静かに見守っている態度であるように思われる。終わりの雨蛙を見るのは如何にも偶然なことであろうが、あの作にとって、その偶然であるべきことがあまりにも必然的な関聯を持っているので気になった。然し、一句と雖無駄のないものと思った。書出しのあたりの要領のよさ、主人公の妻の姿、主人公の妻に対する気持ちが、簡潔な筆で、ほんとうにヴィヴッドに出ていると思う。最後の本を焼くのは、少し常套的な気がしないでもない。」
 それからここに送った「ロクの恋物語」は昨年の九月の作です。ある雑誌に出したのですが、友人や先輩から色々のことを云われました。実に不満です。改作をしようと思っています。それには、是非貴方の御考えもお聞きしたいのです。色々イヤ味のある作でもありますが、若し、お暇がありましたら、その時々にお読み流し下さい。そして、更にお暇がありましたら、これから一生懸命やって行こう、と思っている者のために、あの作の欠点(長所などある筈ありませんが、長所は勿論いりません)を、お聞かせ、御指導し下さることを、お願い致します。

一方直哉は、1924年多喜二の「駄菓子屋」について、「前号の拙作「駄菓子屋」について志賀直哉氏が「日本の小説の型に小さく出来上がっているように思います。そして実感が弱く小説の臭いの方が強く思います。」と批評した。
これに対し多喜二は、「富裕のうちに育った同氏のことだから、駄菓子屋の生活がほんとうに分かっての、評かどうか?「暗夜行路」の中の同氏を考えてみれば、自己弁護のようであるが、どうも疑わしく思われる。然し自分たちの作品が「日本の小説の型に小さく出来あがっている」ことは事実である。広く文壇を見渡してみてもこの事は云える。この点自分は志賀直哉氏に感謝するのである。」(『クラルテ』「編集後記」三)
と互いの作への感想を交換している。

このころの多喜二の日記にも、志賀直哉についての記述がある。
▽1926年9月14日=勝見しげるから葉山義樹氏の単行本「淫売婦」を借りて読む。…「淫売婦」の一巻はどんな意味に於いても、自分にはグアーン!と来た。言葉どおりグアーンと来た。…悲惨な事実を描くだけでは自然主義文学とプロレタリア文学とはちがっていないかもしれない。が、主人公の意識―作家の態度、意識がこの二つではまるッきり異なっている。それからもう一つは「表現」である。新しい酒は「絶対に」新しい嚢にもらなくてはならない。日本の女が洋服を着たような不恰好が、でないと生まれてくる筈だ。この作者の表現様式―技巧は前述の意識を表現するに最も適切である。線が荒い。自由な清新な比喩(これが特に著しい。)そして大胆である。空騒ぎにそれでいてなっていない。志賀直哉氏あたりの表現様式と正に対蹠的にある。志賀直哉のばかりが絶対な表現ではない。この二つの重大な要素が自分を打った。そしてこの重大な要素こそは群小作家、老大家のあり来りの、気の抜けた、一度も二度も百度も書き古されたものの引き伸ばし的なものの間に、「鮮明」にその特質を要求した所以である。存在理由(レーゾン・デアル)だ。

▽9月15日=ゴールキーの自然描写はいいということは聞いていた。全くいい。「情熱的自然描写」とでも云うべきものだ。…ストリンベルクの「アスラ」の中の自然描写、志賀直哉の「暗夜行路」の中の自然描写…等々、各特色あるものと、好一対をなすものだ。ゴールキーが、チェホフ、コーロレンコ、トルストイの間に地位を得た事実は、以上ではっきり判る。 然るに小林多喜二は菊地寛、武者小路実篤、志賀直哉等の中に、又葉山嘉樹、前田河広一郎の間にその地位を得られることのできるような、人生態度にユニックな、その表現に独異なものがあるか!?

さらに▽10月9日の多喜二日記には、
「「十一月三日午後の事」「網走まで」「或る朝」「宿かりの死」「木と鋸?」などを、フト、これで何度か、読みかえして見た。外国作家あたりとはまるっきり異なったアッサリした、それでいてピタリ来るものだ。何度読んでもいい。然し、俺は(書いている自身だ)断然、いいか断然だよ!志賀のカテゴリーのうちから、出ることだ。俺が志賀らしく書けばねあくまで志賀より出れないんだ。ところが俺は志賀以上、ストリングベルク以上、ドスト以上になろうと思う、その俺が一志賀の下にいることは断然、勿論断然!のがれなくてはならない。今度書こうと思っている長篇は志賀にも、ストロンベルグにも、ドストエフスキーにも、チェホフにも全然ないもので、「俺自身」のもので書かなければならない。「表現法」も、「内容」も。―分かったか!!

▽11月11日 タキ子が家出をした。

そしてこのころから、多喜二の文学世界は、本格的に志賀の文学的手法からの脱皮への模策と、「私小説」と「客観小説」との混在が始まる。
そしてその成果は、やがてゴールキーを模した郷利基のペンネームで執筆した「最後のもの」に結実する。
しかし、それさえも志賀の表現方法の匂いを濃厚にただよわせたものだった。

▽多喜二「1927年7月8日の日記=志賀直哉の「山科の記憶」を全部読んでみたが、心を打たれるようなものがなかった。形式と内容は「文芸」に於いては不可分離にあるものだ。志賀直哉の超社会性は、その文芸的基礎を乾かす結果を意味し証明しているようだ。
と一年ぶりに志賀直哉の作品の感想を綴っている。

▽7月12日=(「山科の記憶」は)「読み返してみるとナカナカいい処が眼についてくる。迫力はないが。毎日海に入っている。「その出発を出発した女」は1日平均二枚位も書けている。

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