「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

吉岡吉典 が読む「一九三二年三月十五日」

2008-12-06 13:44:01 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
3・15弾圧事件から80年/吉岡吉典
検挙者に現役軍人多数

 今年は一九二八年の日本共産党にたいする全国いっせいの大弾圧、三・一五事件から八十年を迎えます。この事件について吉岡吉典元参院議員から一文が寄せられました。
 今年は日本共産党弾圧事件を代表する三・一五事件八十周年の年である。いろいろと気づいたことを話してみたところ、ほとんどの人に知られていないことがあった。二点ほど紹介しておこう。

有罪で起訴されたものは十数名に
 千六百人が検挙され、五百人近くが起訴された三・一五事件では、現役軍人が三十一人も検挙されていた。戦前、帝国軍隊の中でも日本共産党員が活動していたことについては、「党史」でもとりあげられてきた。しかし、三・一五事件検挙者に現役軍人がおり、しかも全国にわたっていたことは、あまり知られてないようである。もちろん、全く知られていない事件ではない。公表はされていないが、憲兵生活十五年におよび、昭和の戦争時代を憲兵として生きてきたという元東京憲兵隊特高課長、東部憲兵隊司令官大谷啓次郎氏が、四十年以上前に、『昭和憲兵史』(昭和四十一年刊、みすず書房自序)で、「三・一五事件によって検挙された在営軍人は三十一名に上った。そして有罪として起訴されたものは、第一師団二、大阪師団三、小倉師団一など十数名であった」と記している。
 同氏は『皇軍の壊滅』(図書出版)という本でも、「赤化工作に悩む軍隊」などと、当時、軍隊内に共産党細胞(支部)がつくられ、どんな活動をしていたかも含めて、三・一五事件についても述べている。憲兵の立場から見た、日本共産党の軍隊に対する工作や隊内での共産党員の活動の一端を描いている。しかし公式な発表は、戦前も戦後も全くない。
 ともあれ、三・一五事件で三十一人も検挙者が出るほど現役の軍人の中に共産党員がいたことは、天皇の軍隊にとっては、きわめて衝撃的かつ重大なできごとであった。天下に公表するわけにもいかなかったであろう。そもそも、三・一五事件は、我妻栄代表編集『日本裁判史録』(昭和・前)の解説によっても、「日本における唯一の反戦勢力、天皇制ファシズム反対勢力を抑圧して、その後の帝国主義的戦争の諸展開を用意した」と書かれている。その帝国主義戦争の担い手である帝国軍隊の中に、共産党細胞が生まれていたというのは、天皇制権力を震え上がらせる出来事だったと思う。
 三・一五事件やそれに続く共産党弾圧に関する記録を見ると、弾圧しても弾圧しても、壊滅できない共産党、つぶすことができない共産党に「悲鳴」を上げていることがはっきりうかがえる。三・一五事件では、東京帝国大学生など、日本の将来を背負うものの中に多数の検挙者を出したことに、日本の将来への不安を抱いているが、多数の現役軍人の検挙は、この比ではない衝撃であったことはいうまでもない。だからその事実についてのべている記録は、あとでみる帝国議会への秘密報告を含めて私は、公式にそれについてのべたものを知らない。国民の前に、明らかにすることができない出来事だったのである。
 戦前の「日本赤色救援会」が、一九三一年に作った『治安維持法弾圧犠牲者名簿』によると、「三・一五事件判決表」に「軍法会議」の項目があり、「起訴者4」「第一審=人員4、判決109」とある。そして「註 軍法会議は、発表された資料がないので不明なるも大概二年半である」と書かれている。同資料によれば、四・一六事件にも「弘前軍法」の項があり、起訴者一名が「判決3」となっている。詳細にはわからないにせよ、三・一五事件でも、四・一六事件でも、共産党弾圧事件で、軍法会議を開いたこと、つまり、現役軍人の検挙者があったことをあきらかにしている。

帝国議会の秘密会での報告に見る
 もう一つ紹介しておきたいことは帝国議会の秘密会での政府の報告に関してである。
 共産党弾圧関係の帝国議会への報告は、衆議院、貴族院でそれぞれ、昭和三年四月二十五日の「共産党事件の報告」と昭和八年一月二十四日の「共産党検挙に関する件並に五・一五事件に付ての報告」いわゆる一九三二年の熱海事件についての報告の二回である。
 その内容は、戦後も長く非公開であったが、一九九五年、衆院秘密会の速記録も、貴族院秘密会の速記録も公開され、六十八年後にその中身があきらかになった。
 熱海事件は、一〇・三〇事件ともいわれ、「一九三二年十月三十日、三二年テーゼにもとづいて党の再建を図るため、熱海でひらいた、全国代表者会議の際、スパイ松村の手引きで、全員検挙、続いて全国一斉に弾圧した事件」についての報告である。(「第一冊」)

弾圧しても弾圧しても

 公開時の議員は全員衆議院・貴族院の『秘密議事録速記録集』の配布をうけているので読んだ議員から聞かれた方もいるかもしれない話である。
 熱海事件についての小山松吉司法大臣の報告は「昭和三年三月十五日及(および)昭和四年四月十六日の二回に亙(わた)り、全国的一斉検挙を初めと致しまして、昭和五年の二月及同年七月の部分的検挙等に依(よ)りまして、党首脳部委員以下多数の党関係者を検挙致しまして、其都度(そのつど)党組織の上に致命的打撃を加へて居(い)たのであります」。にもかかわらず、熱海事件で、再度三府二十六県にわたり二千五百四十七名に上る検挙を行ったのである。小山司法大臣は、一九二八年の三・一五事件以来一九三二年末までの検挙者は三千九百六十一人にのぼるという報告もしている。
 検挙のたびに「致命的打撃」を与えたといいながら、再度「熱海事件」では、大検挙をおこなわざるを得なかったのである。

検事・判事への注意「ミイラにはなるな」
 なぜ共産党は不死身なのか。科学的社会主義と日本共産党の主張が、人々をとらえる力を持っていたからである。弾圧の当事者小山司法大臣は、議会への報告の中で、弾圧担当官が、共産党事件取り調べのためには、共産主義に関する書物を読まなければならなかったし、それによって共産主義にかぶれるもの、ミイラとりがミイラになることがないようにすることを注意したとのべている。
 「司法部と致しまして、どうぞ御同情を得たい点が一つあります」として次のように述べている。
 「大正十二年の第一次日本共産党事件の検挙の終りました際に、吾々は非常に当惑したのであります、検挙致しました人々は共産党の書物を能(よ)く読んで居る、之(これ)を調べる予審判事は、まあ打明けて申しますと第三『インターナショナル』とは何のことかわからなかったのであります、それでは困ると言うので、遽(にわ)かに盗賊を捕えて何とか云う訳で、何の書物を読もうかと云うので書物を読み始めた位のものでありまして、又知らなければ訊問も取調も出来ないのでありますから、そこで其後思想係と云うものをおきました」(〔一〕)
 その次の部分が注目にあたいする。
 「そうして検事に共産主義の書物を読ませなければならぬのであります、読ませて置いて共産党にかぶれるなと云うのでありますから、是位(これくらい)むづかしい仕事はないのであります、私共は非常に注意したのであります」(同)
 共産主義の書物を読めば、「かぶれる」のが当たり前だと、考えていたのである。共産主義は、読むものをとらえる力を持っていること、つまり真理だということを、帝国議会に報告していたのである。
 「それで度々(たびたび)私共は検察当局と致しまして、検事に向って木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になると云うことがある、そう云うことがあっては困るから、是は国家の為に一生懸命にやって貰(もら)わなければならぬと云うことを言ったのであります」(同)。要するに、共産主義は、魅力満点であろうが、お国のためにかぶれないように一生懸命頑張ってくれという訓示である。

思想検事の旗頭が「左傾止められず」
 そのころ、日本の思想検事の旗頭と言われた池田克という検事は、『警察研究』と言う内部の雑誌(第一巻五・六号、昭和五年)に「日本共産党事件の統計的研究」という、三・一五事件、四・一六事件についての研究論文を掲載しているが、そのなかでつぎのように書いている。
 「今日行われている思想運動、それは社会の内的矛盾拡大の過程に於(お)ける必然的産物であって、天上より降り来るものヽ如く突如として生起したものではない」「筆者の観察に依れば日本共産党事件は之に先行する推移変遷の過程に依って準備されたものである……」(第5号)「端的に之を云えば、共産党事件は甚(はなは)だ多量に社会的要素を含んでいるのである。従って之より引き出さるヽ結論は、従来と同一の社会的条件が存続する限り、人をして左傾思想乃至左傾運動者たらしめることを止め得ないということである」(第6号)
 思想検事が、共産党は、社会の矛盾の産物であり、弾圧で壊滅できないと書き、司法大臣が、共産党捜査、取り調べのために、共産党の書物を読んだ検事や判事が、共産党にかぶれ、「木乃伊取りが、木乃伊になる」事を恐れていると、帝国議会で告白していることも、彼等に与えた衝撃の大きさを示す。「敗北宣言である」。科学的社会主義の優位を証明するものでもあったのだ。
 (引用は現代かな遣いに改めました)
 (よしおか・よしのり 元参議院議員)
( 2008年03月11日,「赤旗」)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿