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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

追悼「半藤一利」の遺言

2021-02-02 20:31:35 | 読書

 元『文藝春秋』の編集長だった半藤(ハンドウ)一利さんが先月21日に亡くなった。享年90歳だった。そのときちょうど、保阪正康氏との対談『賊軍の昭和史』を読み終え、半藤氏が2008年から12回にわたって講義してきたものをまとめた『幕末史』(新潮社、2012.11)を読んでいる途中だった。ペリーの来航から大久保利通の暗殺までの歴史を話し言葉そのままで表現しているので素人にはわかりやすい内容だった。中身は要するに、海図がないまま権力闘争に明け暮れたのが幕末史で、そのまま昭和に突入してそのまま現在に至るというわけだ。

   

 「明治維新」というと聞こえはよいが、本質は薩長の暴力クーデターでそれに反する「賊軍」は徹底して駆除された歴史だったのではないか、というのが作者の歴史観だ。幕末の尊王攘夷論や昭和の「大東亜共栄圏」から学ぶことは「熱狂的になってはいけない」ことを作者は忠告する。「幕府は倒したけれど、あとの青写真を持たず、誰も責を任ずるだけの力を有していない」のが当初の新政府の内情だったと告発する。

              

 「政府とか権力といったものは、絶対的なものなんかじゃない。所詮、権力奪取に憑かれたものは、汚名を千歳に残すことになる」との、福沢諭吉の言葉を借りて、「明治は今の日本のつくりあげた母胎なのである」ということへの疑問を提示する。そして西郷と大久保との「私闘」の結果は山県有朋の軍事優先国家の道を選択してしまうことになったと分析する。

 また、官軍の戦死者は残らず靖国神社に祀られたが、賊軍の戦死者は今もって逆賊扱いでひとりとして祀られていないという不条理を半藤氏は言い続けてきた。しかしそれは誰にも気に留めてもらえなかったと無念を語る。半藤氏も子どものころ、正義の薩長が尊王のスローガンをかざし、徳川らの賊軍を撃破して皇国を作ったと学校で教えられていた、という。

   

 しかし、生家の新潟の寒村の周りでは、官軍によって焼け野原になったものの猛然と抵抗した秘話を何度も聞かされたという。その原体験から「幕末史」そして「昭和史」へと解明していくことになる。こうした視点から、「憲法9条は守るのではなく育てる」のだという言葉や、昭和天皇の戦争責任はないとは言えないという視点が出てきたようだ。

 また、永井荷風が「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」という言葉に続けて、半藤氏は、差別された賊軍出身者(鈴木貫太郎・米内光政・井上成美)らが武闘派を抑えて終戦処理をまとめて今日の日本を救ったとフォローする。戦火で逃げまどい九死に一生を得た一利少年は、その後タカ派の牙城「文藝春秋」の中で敢然と反戦を訴えてきた信念に頭が下がる。戦争を体験してその本質を知った有為の人をまた失った。歴史の風化がますます増進する。

 

 

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