初詣に行ったとき意外な石塔に出会った。
「不見、不聞、不言」の三猿だけの庚申塔は、江戸初期のものらしい。 奉納は、判読が難しい刻字から「寛文」年間と解読し、1668年ではないかと。 江戸中期以降は、「青面金剛像」が主流となっていくので、この庚申塔は確かに初期の貴重な形式を示しているものだ。
庚申の「猿」は、神道では主尊。仏教では「青面金剛」像が主尊。 この寺は天台宗だが、その教えの中に、三猿が出てくるそうだ。 相互乗り入れが民間信仰の真骨頂だ。
三猿は中国から伝播したが、世界的に存在していて、そのルーツはわからないらしい。 そんな流れの中で三猿は江戸庶民の心を捕捉してしまった。 現実を「不見、不聞、不言」ということは、それほどに、現世は厳しいということだったのかもしれない。
その近くに「敷石供養塔」というのがあった。 この「隅丸角柱型」石塔には摩滅した地蔵らしき坐像の下に「敷石供養塔」と彫られている。 おそらく、寺院の参道にはかなりの石と労力がかかったのだろうが、その痕跡はこの石塔のみだ。 まわりは民間の住居が目の前まで迫り、寺を包囲している。 民家に押された寺は崩落しそうな山の斜面の隅っこでなんとか体面を保っている。
それにしても、敷石にまで畏敬するという発想はすごい。 一神教の傲慢さに比べて、多神教はじつに謙虚でもある。
さらには、シンプルな「雷神塔」があった。 きっと、日照りが続いたのであろう、急遽、作られたのかもしれない。雷神は神道系のものだが、ここでも、寺院の庭に神道系の石塔が混在している。 排他的ではないのがいい。
つまりは、多様な神々とともに、民衆は複雑な現実に多様に向かいあっていたのにちがいない。 (川崎市高津区)