goo blog サービス終了のお知らせ 

山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

神社の屋根瓦も見どころ

2018-09-14 23:18:13 | 石仏・石造物

 「村社八幡宮」の神社の屋根が意外に見どころだった。鬼瓦の上部には3本の経文が乗せてある。経文というと仏教ではないかと思うが、そこは神仏混交のごちゃごちゃ信仰が表現される。その下に「綾筋(アヤスジ)」という2本の筋がある。ふつうは「Λ」型の2本の線が経文と平行または水平にあるが、ここは交差しているところがけっこう珍しい。

 その下の左右には「雲」がオーソドックスに配置され、その中央には蓮の花がありその真ん中にキク科の家紋がある。「村社」にしては立派な鬼瓦だ。

 

  

             

 屋根の左右には唐獅子の飾り瓦があった。阿吽それぞれあるが、「阿」型獅子の目は片方しか見えない。しかも蜘蛛の巣に捕らえられている。「吽」型獅子は逆立ちしているがお尻が欠けていた。表情はかわいい。これで魔除けになるのかなと心配してあげる。

               

 さらに、松の樹の瓦を発見。松と言えば不老長寿の生命力を表したり、門松のように神が降臨する縁起物だ。同時に、唐の詩人「白居易」の詩に「瓦に松有り」というくだりがあり、それは古びた家を象徴したものだそうだ。両面の対照的な意味があるのがユニークだ。この「瓦の松」は初めて見たように思う。

 これらの飾り瓦は、邪気を祓い福を呼ぶものとしての意味があるが、これだけ豊かな作品がお寺ではなく「村社」に残っているのがすばらしい。境内もそこそこ清掃されていて雑草も少ない。カエルや羽黒トンボが遊びにきていた。周りの田園風景にはシロサギが何羽も目撃できた。都市化に包囲された「村社」を昔から支えてきた集落のひたむきさが伝わってくる。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

功徳を印刻した宝篋印塔

2018-01-25 01:10:21 | 石仏・石造物

 瑞雲院にあった「宝篋(ホウキョウ)印塔」はいつ頃のものかはわからなかったが、「基礎」にお経の趣旨を印刻している。

 この石塔は、おおまかに「相輪・笠・塔身・基礎」から構成されているが、相輪は金属製。この部分はあとで作られたものかもしれない。「塔身」にお経が入っている「篋(ハコ)」があるのが特徴だが、時代と共にその多くは簡素・省略があったり多様のようだ。 

                 

 「基礎」に刻印されている文字を判読できる範囲で読んでみる。「円成宝塔/八萬由旬/仏〇高輝/威光維新」かな。「由旬(ユジュン)」とは、古代インドの「長さ」の単位。

 仏陀の威光がこれでもかと輻射してくる文章だ。要するに趣旨は五輪塔と変わらない気がするが、背の高い立派な宝篋印塔であることは間違いない。合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天野氏墓所の無常

2018-01-22 21:32:45 | 石仏・石造物

 昨日の散策会のゴール手前は瑞雲院だった。最後に見た天野氏の墓所は墓の大きさといい規模といい、小さいものだった。というのも、南北朝時代には南朝方・北朝方それぞれで骨肉争う内部抗争に明け暮れ、また、戦国時代では武田軍・徳川軍の狭間で揺れ、最後は犬居城から各地に敗走した経緯がある。

 

             

 そのため、大規模な墓石を作る余裕なくひっそり小さな「一石五輪塔」が残された。一石五輪塔は、字の通り一つの石で五輪塔の墓を作ったものだ。戦火で破壊されたこれらの墓石は近くにあったものを、昭和30年、地元の森下喜作・石黒仁さんらの奔走により現在地に修復されたものだという。

                

 五輪塔は、上から、「空」「風」「火」「水」「土」という宇宙を構成する要素を示す「仏」とともにある供養塔でもある。こうした墓石は室町時代前後の貴族や武士などかなり身分が高い有力者の証左である。

 

        

 そのすぐ隣の「笠付方形」をした墓石群も新しいとはいえ、名主級の有力者らしい。石の墓石をつくることが庶民にできるようになったのは江戸中期以降というから、現在の角柱型墓石は新しいものといえる。

 

  

 さらには、その隣には、卵のような「無縫型」墓石が並んでいた。禅僧の歴代住職の墓のようだ。宇宙の根源は無我にあり、すべてをつなげていくと卵型になるので「無縫」というらしいが、どうも納得しがたい。31代の住職の墓があったから、行基が創建したという瑞雲院の歴史の重さを引きずっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庚申信仰は夜遊びが本音だった

2017-12-31 21:03:13 | 石仏・石造物

 川崎高津区の急坂の途中で発見した「庚申塔」は、六手合掌型のもっとも標準的な石造だった。

 邪鬼を踏みつけている憤怒相の「青面金剛像」は、庚申講の本尊だ。

 持ち物は、左手に輪宝・弓、右手に三叉戟(サンサゲキ)・矢、といういつものパターンだ。

 上部に太陽と月なのだが、雲でわかりにくい。下部には三猿というのも標準パターン。

 

                                      

 病気のもととなる虫封じのために庚申の日に徹夜するという信仰だが、レクレーションの機会が少なかった江戸の庶民にとっては、徹夜して食事や団欒を楽しむチャンスにしたようだ。

 むかし里山の入り口にあっただろう急坂の途中にあるこの石造は、農業の神であったリ、道祖神を兼ねたりしていたに違いない。

 今ではひしめく住宅地となった変わりようを青面金剛明王は、どんな思いで眺めているのだろうか。

 

  2017年がまもなく終演する。世界の憲兵だったアメリカはトランプ大統領の登場でますますの威信の低下。対米従属の日本は相変わらずだが希望への道筋を探しあぐねている。オイラも心身とも老化がはなはなしくなってきたうえに、次兄も天国からついに呼び出された。

 疲弊した地域や人間を改革してきた二宮尊徳の報徳思想は生きる希望を具現化し、その後の事業家や庶民の生きる方向を指し示した。そしていま、それに続く理念はどんなものがあるのだろうか。とりあえずオイラは土の生成力に学びながら歩むことにする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レアな石仏発見

2017-11-20 21:08:37 | 石仏・石造物

 昨日の散策会で奥山の集会所の隣にいくつかの石造物が目立たないようにあった。

 いちばん背が高い板碑には、「徳満院・涼風・道閑・居士位」と戒名が印刻してある。

 順番に、「院号」=社会貢献した人に与えられる、「道号」=仏道を修得した人の呼び名、「戒名」=仏の弟子になったことを表す、「位号」=性別・地位・尊称、の4つに分けられる。

  これらの刻印からきっとこの石碑のかたは地域で尊敬された有徳の男性に違いない。

 寺院にとっては、葬式とこの戒名付与が残念ながら、寺院経済=葬式仏教の基盤ともなっている。その高い経費に不満と怒りをたびたび耳にする。僧侶はそれを当たり前として受け止めているのだろうか。

 

      

 その隣には、右に「明治34年10月再建」、左に集落名の「下茶組中」の刻印がある石像が佇んでいた。こうした童女の僧形石仏は今まで見たことがない。石仏の写真集でも見当たらない。

 道祖神なのか、安産=豊作祈願観音なのか、馬頭観音なのか、わからない。

 いかにも民間信仰らしく庶民的で好感が持てる石仏だ。

 

      

      

 さらにその隣には、六地蔵が並んでいた。廃仏毀釈を免れたのだろうか損傷はほとんどないが、苔むして持ち物や表情はわかりにくい。

 集落が無くなる存亡の危機にある地域の現状をお地蔵様はどのように見ていらっしゃるだろうか。貧しいけれでも生活できたむかしの山暮しから比べると、今は集落そのものが成立しなくなる危機にある。それで豊かな地域・豊かな人間が形成されているというのだろうか。

 宗教の在り方はもちろん、政治も自治体もマスメディアも人間も、新たな「ルネッサンス」が求められていることを痛感する。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

砲弾を持った狛犬発見!!!

2017-02-04 20:35:26 | 石仏・石造物
 ウォーキングの合間に神社(川崎市・大戸神社)によってみる。
 本殿の前に奉献された古そうな狛犬を観たら、なんと砲弾を持っているではないか。
 これは珍しい。
 国内に5頭しかないという噂があるほど、希少な存在らしい。
作品としても迫力のある彫の切れ味がいい狛犬となっている。

                                        
 一般的に、向かって右側は口を開けた「阿像」、左側は口を閉じた「吽像」と言われているが、ここでは大きな違いはないように見える。
 それ以上にこの狛犬は、明治40年10月に村の有志の兵士12名が奉献されたと裏に刻印されている。
 砲弾には、「日露戦捷記念」と彫られている。

      
 ポーツマス条約がその2年前に締結されているから、大国ロシアに戦勝(捷)した当時の息吹が伝わってくる。
 しかしその勝利は日中戦争や太平洋戦争への呼び水となった。
 その驕りは戦争加害者へと拡大してしまったが、その清算は戦後になってもいまだできていない。

                                           
 むしろ、戦争被害者と思わされている現状がある。
 しかもそれに拍車をかけたのは国家神道だった。
 その神社はいまだに戦争に加担したことへの反省が全くない。

                                
 むしろ日の丸や天皇の旗や激が、大きい神社ほど埋めつくされるほどだ。
 そこに違和感を感じないくらいの感性は、戦後教育の成果ともなっている。
 だから、中国や朝鮮やアジアから日本の歴史認識の欠如を指弾されているのだ。

 砲弾を持つ狛犬を見てどれだけの人がこうした想像力を働かすだろうか。
 珍しいというだけでとどまってはいられない。             
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さりげなく六十六部供養塔あり

2016-12-11 22:07:57 | 石仏・石造物
 先日、天竜二俣にある清瀧寺によったときにさりげなく置かれていた供養塔が気になった。
 石像の右側には延亨3年(1746年)10月10日に奉納したことを明示し、「大乗妙典経六十六部供養塔」と印刻されている。
 「大乗妙典経」とは法華経のこと、「供養」とは自分が得た功徳を他者に施す意味がある。
 左側は「南無大悲観世音菩薩」と印刻されなんとか判明する。
 石仏の印刻が見事で菩薩の顔が半分ながらよくできた作品になっている。

 「六十六部供養塔」は、西国三十三所とか四国八十八か所とかの霊場巡りと同じく、六十六か所の霊場を回わった記念塔だ。
 普通の巡礼はコースが決まっているが、この六十六部は一国一か所に法華経の写しを一部ずつ納経していくという。
 ただし、コースや順番は問わないのが特徴だ。

 この菩薩は六道に苦しむ大衆を救う観音様というわけだ。
 左手に悟りを表す開きかけの蓮の花、右手は「あなたの願いを聞きます」というサインの「与願印」を表現している。
 おそらく「豊田郡」の講中が寄付を集めて行者または有志に頼んだものでそれが66か所の踏破に成功したものに違いない。

 一つの野仏にはいろいろなドラマや歴史が凝縮されている。
 その多くは文字が解読できなかったり、石仏の風化が激しかったり、地域によって容姿が違ったりしていてなかなかその意味を掴むのに難航する。
 それもまた修行なのかもしれない。
 合掌。



 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山の道は不動尊への道だった

2016-10-17 19:53:41 | 石仏・石造物
 昨日散策した天竜区熊地区の道は、山に囲まれた田園風景のなかにピッタリの石仏が並んでいた。
 はじめは六地蔵かと思ったが、よく見るといろんな石仏を寄せ集めたように思える。

                         
 というのも、いちばん左の観音は「西国三十三所」と彫られていた霊場巡りを巡拝した記念塔だった。
 刻字された上の如意輪観音は片膝立て・頬杖という典型スタイルだ。

                        
 同じ並びに馬頭観音らしきスリムな石仏もあった。
 手に持っているのは蓮の花だろうか。
 さらに、「笠付き角柱」の石塔もあり、それぞれよく見れば様々なキャストが揃った場所だった。

    
 しばらく歩くと神沢(カンザワ)の滝がある荒沢不動尊にたどりつく。
 ここには36体の石仏が点在している。
 彫刻したのは浜松の「松下萬吉」という人が奉納したようだ。
 入り口の鳥居は大正時代に作られたもので、往時のにぎやかな祭りが想像された。

                          
 不動明王には「三十六童子」の眷属・使者がいるということにちなんで配置・点在された石仏が空間を厳粛にする。
 それぞれ表情や持ち物が違ったり、役割があるようだが、よくわからない。

 
                           
 それぞれの石仏を管理する大変さが伝わってくる。
 中山間地の人口流出、高齢者ばかりの集落、農林業の不振などがこの薄暗いながらの神聖な場所からも迫ってくる。
 それでも、周りに繁茂していた四角柱の「四方竹」を伐採したり、通路を整備したりの地元の努力の痕跡がありがたい。

 それにしても不動明王の力が通用しなくなっているのだろうか。
 空海が広めた仏教と神道とのごちゃまぜパワーが色あせてきたということなのか。
 奈良時代以降、日本型「現世利益」を貫いてきた「縮小日本」の生き方は、いまだ健在だがさすがほころびが見えてきた。

天高い秋の季節はやっと天日干しの稲わらをしっかり応援していた。         
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あじさい寺の石灯篭・宝篋印塔

2016-06-22 22:01:35 | 石仏・石造物
 森町のあじさい寺に行ったときに最初に出会ったのが「宝篋印塔」。
 「宝篋(ホウキョウ)」とは「宝箱」、「印」は「価値ある」の意味で、この塔に安穏長寿の呪文(真言)が書かれたお経が納経されている。
 釈迦没後100年後、インドのアショカ王が全国に小さな仏塔を作ったことで、中国でも同じく作成されたのを留学生が日本に導入して広まったという。

                        
 堺市の「浜田石材店」のHPによれば、こうした「宝篋印塔」は、平安中期から鎌倉時代以降に流行したそうだ。
 その形には、「関東型」と「関西型」とがあるが、これは関西型だろうか。 
 しかしよーく見ると、梵字が書いてある塔身がなんと二つ重なっているではないか。
 これは大発見。
 おそらくこれは二つあった宝篋印塔を一つに合体させたのではないかと思われた。

   
                         
                          
 石灯籠の多くは奈良の春日神社にある「春日型」の石灯籠に多く出会う。
 火が入る「火袋」の彫刻には、鹿・雲・三笠山(+月)・透かし格子(+波)の4面のデザインが定型化されている。
 しかも、①火口 ②神鹿 ③雲 ④火口の後戸 ⑤三笠山 ⑥格子 という順番も決まっている。
 しかしこちらのデザインはけっこう個性的にアレンジしているのがいい。

    
                             
 それ以上に、子安延命地蔵尊前に奉納された石灯籠はじつに独創的で素晴らしい。
 民家が火袋というのがローカルで、正面の鶴、横面の梅という斬新なデザインが彫られている。
 あじさいばかりではなくこうした石造物の意外性がまた好奇心を増幅させてくれる。
 二十数軒しかいないという檀家が支えるあじさい寺の行く末は厳しいものがあるが、観光バスでやってくる団体客がいたのはホッとする。
 庭の管理を託されている好々爺にまた再訪することを約束して帰路に就く。  
 
          
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信仰と歴史の「二俣」光明寺

2016-04-27 22:42:40 | 石仏・石造物
 再び天竜二俣「光明寺」。
 天平9年(737年)、天竜川の2頭の大蛇を退治(つまり天竜川の氾濫をしずめた)してくれたのが、「笠鋒坊(リホウボウ)大権現」だったという。
 その祈願のときに75膳を献供したということで、以来その神事がいまだ10月の最終土曜日に行われている。

 秋葉山の火伏せの神が「三尺坊」に対して、光明山の水防の神が「笠鋒坊」だが、その石仏が光明寺の山道にあった。
 槍を持っているのはわかったが、右手に何を持っているかがわからない。
 ほかでは見たことがない珍しい石仏だった。

                         
 その隣に、摩利支天(マリシテン)の小さい石仏を発見。
 これもなかなか珍しい。
 そのときは気がつかなかったが、よーく見るとイノシシの背中に乗っているのだった。

 火炎が背後にあったので不動明王かと思ったが、戦勝の神「摩利支天」。
 武将はこの御札を鎧に隠して戦に臨んだらしい。
 武士の時代には人気があった摩利支天像の名残だと言える。
 
           
 修験の森らしく急峻な尾根のアップダウンの最後に、立派な石像があった。
 槍を持って鎧をきているようだ。
 守護の神毘沙門天ではないかと思える。
 これらの石仏の存在が攻防の要衝の二俣らしい。

 これ以外に多数の石仏に出会ったが、それほどに光明寺の影響力が大きかったという証左でもある。
 しかしこれらの石仏の紹介資料もなくは地元でもあまり知られていない。
 


                        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする