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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

石灯籠の珍品を発見

2020-02-24 11:40:42 | 石仏・石造物

 足腰がだいぶ弱くなってきたのでウォーキングを始める。ふだんは車で通り過ぎてしまう所だったが歩いてみるとやはり発見がある。歩いてみると効率や速いだけがすべてではないことを実感する。そこで見たものは、「笠」と「火袋」が特異な変形石灯籠だった。「火袋」の形は花弁のように丸く先端に切込みがある。三日月・満月(太陽)・茶筒・瓢箪などの形を刳り貫いている。この形も珍しい。てっぺんの「宝珠」が大きすぎて全体のバランスを崩しているのがもったいない。

                    

 なんといっても、その「笠」にマグマのような彫りこみがあるのが珍しい。石灯籠というと「春日燈籠」のような伝統的な定型パターンが圧倒的に多い。そんな中でこうした前衛的な「笠」は見たことがない。何を表現したかったかはわからないが、まさに伝統の固定的な概念を打ち破る作家のエネルギーマグマが表象されているように思える。それが成功しているかどうかは迷うところだが、創作歌舞伎のようにこうした挑戦に賛意を表したい。

                 

 その近くにも、自然石を乗せた石灯籠を発見。「火袋」だけがオーソドックスだが、自然石の「笠」が大き過ぎて圧迫感があるのが残念。地震の時はその笠は崩落してしまう心配が先行してしまう。いかにも、建設業らしい庭の大胆な石灯籠だが、やはり自然との調和が欲しいところだ。ウォーキングした場所はたまたま都会の住宅街だった。創作燈籠の刺激に楽しんだものの、設置した場所がいかにも狭い庭なのが残念。里山を借景にすれば風景から生かされるんだけどと、ないものねだりをした街中散歩だった。

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なんとか生き抜いた「砂川」の青面金剛像

2020-02-20 00:07:55 | 石仏・石造物

 春野町でも風光明媚な「砂川地区」の公民館(寺院境内)横に、石仏群14体が並んでいる。その多くが朽ちたのか破壊されたのか、まともな石仏がない。おそらく、明治の廃仏毀釈(キシャク)の影響で破壊されたのは想像できる。そのなかで、庚申様の主尊・青面金剛像が2体あった。1体は破壊されてかすかに弓矢を持っているのがやっとわかるくらいの石仏だが、もう一体を見てみる。

 

  庚申石仏の標準形式は、「6手合掌型」が多い。この像も、上の手の右側に「弓」、左に「矢」が確認できる。中央の手は合掌し、下の手の右側は煩悩を破る武器「金剛杵(コンゴウショ)」、左側の腕や手は欠損して不明だが、不倫の女人・「ケショラ」か逮捕用?の「羂索(ケンサク)」かを持っていたように思える。ケショラであれば女性蔑視が堂々と表現されていることになる。そこは民間信仰の「道教」らしい。

        

 青面金剛の表情は眼が吊り上がり憤怒の形相だ。石のてっぺんには、左右に月と太陽が定型配置されている。真ん中に何かが彫られているようだが解読できない。ふつうは何もないはずだが、間が空き過ぎなので「法輪」か「鶏」・「梵字」かがあったのではないかと謎が深まる。

        

 足元には、定番の三猿(聞かザル、見ザル、言わザル)を何とか読み取れる。石碑の形式は上端にまろやかなカーブを持つ「舟型」(C類)のようだ。その裏側は粗削りに彫ってある。それはともかく、破壊された石仏をきれいに並べた集落の心が美しい。

 

  上の表は従来、庚申塔の形式を板碑型・特殊型・光背型・板状駒型・笠付型・柱状型の7種類に分類してきたものをさらに手直しした、石神裕之『近世庚申塔の考古学』(慶応義塾大学出版会、2013.4.)からの引用だ。これで読み解くと石碑の傾向がわかりやすくなる。

  石碑の8割が欠損・破壊状態のなか、何とか生き抜いた庚申の主尊・青面金剛の憤怒の形相が歴史に向かっている。嘘と隠蔽がまかり通るのを許してしまっている日本の平和ボケを青面金剛は苦々しく思ってはいないだろうか。歯をむき出しているように見える。

   

 

 

 

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元祖=新国劇・喜劇の歌碑ひっそりと

2019-12-21 00:52:44 | 石仏・石造物

 新橋演舞場入り口の横に二つの石碑があった。読みにくい草書体のせいか、刻印が不明瞭のせいか、列をなす観劇客の喧騒のわりには訪れる人は見当たらない。ひっそりとした佇まいが気になって見に行ったものの、これはいったいだれの石碑なのかが案内板もなく解読もできずにいた。ネットで調べたら、背の高い方の石碑が役者の沢田正二郎、低いほうがお笑いの元祖・曾我廼家(ソガノヤ)五郎だった。

           

 沢田正二郎の名前だけは知ってはいたが大正から昭和初期に大活躍した役者だった。新国劇を創設しその座長として大衆演劇の世界を切り拓いた。歌舞伎と新劇との中間を拓いた。国定忠治・月形半平太・大菩薩峠などは確かに有名だ。とくにチャンバラを舞台に導入して大喝采を得たことで、その後の活動写真や映画でも採用されるなど、彼の果たした影響はいまだに息づいている。

 さて石碑だが、上段に「芸即魂」を掲げ、その下に「何処(イズク)かで 囃子の声す 耳の患」の俳句が刻まれている。彼は急性中耳炎で倒れ、化膿性脳膜炎で急逝した。36歳の若さだった。彼の死後、島田正吾・辰巳柳太郎らが継承したが、1987年劇団は解散。

          

 その隣の曾我廼家五郎(1877-1948)は、「むさし野や 三十年は 泣き笑い」の彼らしい句を残している。日本のチャップリンと言われる人情喜劇の役者・作家でもある彼は、大阪喜劇の本流として明治から昭和にかけて活躍。渋谷天外・浪花千栄子・藤山寛美・曾我廼家五郎八らが結集、「松竹新喜劇」の礎を作った。

 この石碑は、帝都に凱旋してから30年を記念して建立された。また、1975年(昭和50年)には、「曾我廼家喜劇発祥之地」の石碑が藤山寛美らによって建立され、現在大阪松竹座にある。さらに昨年、没後70年を記念して大阪岸和田市にも「生誕地記念碑」の石碑が建立される。この二人の石碑が新橋演舞場にあるということは、大衆演劇と喜劇という庶民にとって生きるエネルギー補給基地がそこにあったということに違いない。演舞場のかたわらにひっそりたたずむ石碑の意味は確かに大きい。

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トンネル脇の石塔・石仏への想い

2019-10-02 22:48:00 | 石仏・石造物

 天竜区二俣町のトンネル脇の石仏・石塔群を再訪する。ほとんど行き交う人もいない道路際にひっそりとたたずんでいる。そのうちの「念仏供養塔」を見てみた。いつごろのものか石塔の裏や横が見えないのが残念だが、江戸か明治ごろのことだろう。念仏をいっぱい念じればそれだけ功徳があるという念仏講があった名残だ。

 「奉唱念仏三千萬遍供養塔」と刻印したようだ。念仏を三千万回も唱えたぞという記念碑なのだ。ふつうは百万遍くらいで石塔をたてたようだが、三千万回とはなんともばかでかい数値だ。念仏講中が車座になって念仏の総計を数えていくわけだが、それほどに、疫病などで死者が多数出たほどに流行した背景があったに違いない。願主は「真参」と読める。

      

 またその隣に、しっかり彫られた庚申塔があった。左上には太陽と雲の刻印が微かに読める。右上は欠損しているが月と雲が彫られていたかもしれない。坊主頭の青面金剛の目はドングリ型で吊り上がっている。鼻の下には蛇のような髭が見られる。左手には「法輪」と「羂索(ケンサク)」、右手には「三叉槍」と「金剛杵(コンゴウショ)」、中央の合掌または「宝珠」を持った手は欠損している。オーソドックスな持ち物だった。ふつう青面金剛の衣服は単純だがこれはリアルに表現されているし、顔の表情も生きている。石工の技術が優れているように思えた。

 農業を中心としたかつての村社会のなかで、念仏講や庚申講がコミュニティーとしての電源だった足跡がそこにあった。天竜の二俣町というと、徳川と武田の攻防の要衝だけが取り上げられるが、こうした庶民の息遣いも残さなければならないね。

 

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秋葉街道・続きの道標

2019-01-18 14:57:02 | 石仏・石造物

 「春野のきのこ屋」さんから関連する道標の画像が届いた。昨日の三倉の道標の続きがこれなのだ。場所は森町と春野町の境界近くで春野町側の秋葉街道にある。以前、この道標をカメラに納めたもののその価値がよくわからないでいた。

 背の高い道標正面には「従是大日道」(コレヨリダイニチドウ)とあり、左側には「霊是山金剛院」とあり、ここから大日山とその霊山にある金剛院への道案内だ。確認できなかったが、右に「安永(癸巳)」と彫られているようで、江戸中期の1773年(ミズノトミ)に建立されたことになる。

              

 その裏側には、「当国豊田郡船明邑/石工・森川伊右衛門吉英」と刻印されている。近郷の船明村(フナギラムラ)の石工が奉納したのがわかる。伸びやかに打刻された道標の字は240年近くたっている現在でも明瞭だ。よく見かける道標の大きさはふつうこれの三分の一くらいだ。そこには職人である石工の心意気がみなぎっている。しかし、2年前に三つに割れてしまって地元では困惑の渦中にいた。そこへ、現代の石屋さんが無償で修復してくれたという。石工どうしの職人気質が昔も今もつながっているのが快い。

  

 この道標近くの茶畑から見た春野の主要な山々が見える。近場の砂川(イサカワ)の高塚山、奥の京丸山と高塚山。東海道から秋葉街道に入り最初に秋葉山を展望できる最初の場所でもあったが、今では樹木にさえぎられている。道標周辺の地域は明治以降「静修」(セイシュウ)と呼ばれてきたが、それ以前にあった「小奈良安」という地名が死語になりつつある。街道沿い(現状は旧道状態)には〇〇屋という屋号がまだ生きており、往時の名残をとどめている。「春野のきのこ屋」さん、画像と情報ありがとう。

    

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栄えた信仰の道・三倉の道標

2019-01-17 09:05:08 | 石仏・石造物

 今ではひっそりたたずむ森町三倉で道標を発見。道標の正面には上の梵字に続いて「従是大日山 三里」と刻印されている。古代インドのサンスクリッド語の梵字(天台宗系は種字、真言宗系は種子という)は、その1字で仏尊の象徴を表す。この道標の梵字は大日如来を意味し「あ」と発音するようだ。大日山には真言宗の金剛院があり718年開創というから、古くから山岳信仰のメッカだった。

                              

 道標の右側には「為威験増進一山☒☒」とあり、その左は判読不明だったが調べてみると「遠江国豊田郡諸人所願☒☒」と刻印されているようだ。山岳信仰では修行によって超自然的な「験力」(ゲンリキ)を身につけられるというから、「威験増進」とはそんな意味合いがあるのかもしれない。

          

 大日山の道標の近くにもう一つの「右春埜山道」の道標もあった。小さな字で「従是三里」とあるが判読がむづかしい。裏には「明治12年10月 周智郡向末本郷 建主髙橋萬平」とある。つまりここから大日山や春埜山へ行く山道があるということだ。春埜山には樹齢1300年と言われる巨木があり、その金剛院の社殿には立派な狼(山犬)が左右に鎮座しているので有名だ。今は曹洞宗だが以前は密教寺院であったという。

                 

 信仰の道・秋葉街道に面した三倉地域は、かつて旅籠や茶屋がある賑やかな要衝の地であったが、今はやはり静寂な過疎地となってしまった。この二つの寺院は行基の開創と言われている。行基はときの権力に公認された僧侶ではないうえに、行基集団をつくり困窮した民衆への布教・救済活動をしたため、たびたび弾圧された。けれどもそのため民衆から絶大な信頼と勢力を行基が獲得したため、当局はそれを無視できず(政権維持のため利用か)ついには最高位の大僧正に任命し、東大寺建立のため招聘していく。そうした行基の人望がこの中山間地のあちこちに残留している証左ではないかと思えてならない。

   

 

 

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明治の若き医師の無念

2019-01-16 18:36:56 | 石仏・石造物

 先日、隣の森町三倉に行ったとき、今では判読不明の石碑が路傍にあった。きっと、建立のときは立派な石碑だったに違いないと漢語らしき字面を追うが、手掛かりがない。こうした判読不明の石碑や石仏が多くて、いつもその意味がわからなくて残念に思っていた。今後その解読不能がどんどん増えるわけだから今のうちに「見える化」が必要だ。

          

 そんなことを思っていたら、その隣にわかりやすい説明版があった。それだけでも感動ものだ。それによると、三倉出身の英才・北川立平くんが東大に入学し日赤病院で外科医として活躍していたが27歳で病死したという。将来を大いに嘱望されていた様子は明治27年建立されたこの石碑じたいが滲み出ている。

         

             (画像はwikipediaから)

 彼の師匠は、袋井市出身の幕末から明治の重鎮・陸軍軍医総監の足立寛だった。足立寛は緒方洪庵の適塾に学び、福沢諭吉の薫陶を得たのち慶應義塾の塾頭にもなる。当代一流の足立寛に学びながらも若くして夭折した北川立平とその周辺の痛々しい無念が石碑に漂う。

   

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寺院の「獅子口」はほぼ教科書どおり

2018-12-30 18:32:08 | 石仏・石造物

 昨日訪問したお寺の屋根の鬼瓦(獅子口)を習性としてやはり見てしまう。てっぺんに3本の「経の巻(マキ)」を乗せて、その下に2本の「綾筋」、中央に家紋、下には「荒目流し」の足、というきわめてオーソドックスな鬼瓦が配置されていた。ちなみに鬼瓦は総称で個別にはこれは「獅子口」という。

    

 天皇が通る「勅使門」の鬼瓦も同じパターンだったが、綾筋が逆V字型なのが珍しい。この逆V字型の綾筋は古代の経の巻を示すという。家紋はもちろん菊。雲や波を表す足には草のような斜線がはいっているのも珍しい。やはり差別化だろうな。その下には最近若い女性が注目しているハート形の猪の目がしっかり用意されている。なぜ猪の目なのかわからないが、魔物を猪のパワーで退散させるということか。

        

 三ツつ目にみた鬼瓦は、波を表現した細い板状の額縁を一番下に配置していた。屋根の都合で勾配が緩い場合にバランスで配置されるようだ。中央の家紋は藤の花のようだ。

              

 反対に勾配が急な場合は「蕨手」の下に雲紋と「荒目流し」でカバーしている。中央の家紋の周りには「台線」と言われる模様で囲んでいる。経の巻には「三つ巴」の祭り模様がされているのも珍しい。なかなかおしゃれな瓦に仕上がっている。

                     

 銅版で覆われた鬼瓦はてっぺんに1本の経の巻を置き、中央に家紋、左右に渦のような文様を描いている。広大なお寺の敷地にある建物の屋根の鬼瓦だけでも標準的とはいえ微妙に違うのが見どころでもある。

                        

 

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鬼瓦の多様さを見落としているぞ

2018-11-13 22:21:21 | 石仏・石造物

 昨日に続き今度は森町・蔵雲院の鬼瓦に注目。境内の隅に置いてあった由緒ありそうな瓦はシンプルな家紋瓦だった。「丸に一引(ヒトツヒキ)」という家紋で新田氏が有名。「一」は龍の昇天を現す形で、「引両(竜)」(ヒキリョウ)型というらしい。そこに雲紋をつけている。

  

 本殿の屋根には3本の経巻を載せた「雲水型切据鬼」と言われる鬼瓦が鎮座していた。「頭」の中央に家紋があり、左右の「胴」には雲紋があるが、「足」がないので「切据」という。その代りに、波をあしらった「エブリ台」という立浪模様の瓦を置いている。なぜ「エブリ台」というのかはわからない。          

 経巻の先端にもいろいろ種類があって、これは「蛇の目」模様がある「巴」の巻物ということだ。これらの鬼瓦を「獅子口」と呼んでいる。同じ鬼瓦でも微妙に違うのが見どころの一つだが、それを体系的に分類している職人・研究者は皆無に等しい。むしろ、人によって呼称が違うのでわからないことが多い。(図は石川商店HPから)

        

 他の堂宇には、鬼面文(キメンモン)と蕨手のある鬼瓦があった。鼻汁のように見えるのはクモの巣だよ。顔つきはなかなか逞しくイケメンだ。この顔面にはオスメスがあるようだがうかつにも確認できなかった。

            

 山門の屋根にも鬼面文の鬼瓦がこちらを睨んでいた。魔除け・厄除けの任務をきっちり遂行しているというわけだ。こちらの顔つきのほうが古代の鬼瓦に近い気がする。山々に囲まれた森町ではあるが、むかしから交通の要所にあり経済の流通をにない、「森の石松」が闊歩していただけに、派手な祭礼といい、文化財の豊富さといい、市町村の合併に動じない自立性を感じたひとときでもあった。

 

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装飾瓦から見えるもの

2018-11-12 21:40:11 | 石仏・石造物

 一昨日立ち寄った森町の「許禰(キネ)神社」の境内には役割を終えた飾り瓦が置かれていた。七福神の「恵比寿」様がいた。釣り竿は見当たらなかったが「鯛」を両手で持っていた。漁業・商業の神様として有名だが、「釣りして網せず」のとおり、暴利をむさぼらない清廉な心を現す神ともいう。

 また、釣り竿は御魂を釣り上げ、鯛は釣り上げられた御魂を示すものという意味もあるらしい。

          

 人気のある「大黒様」が持っているのはウサギだろうか。「頭巾」は上を見ない謙虚さ、二つの「米俵」は「二俵で満足する」という欲を張らない清廉さ、「小槌」は大地の恵みを生み出す「土=槌」への感謝、を指し示す神という。

             

             

 飾り瓦の「牡丹」の瓦。中国では花の王者と言われるほど、その風格や富貴を表現している。同時に、「立てばシャクヤク、座れば牡丹、歩く姿はユリの花」のように、誠実さ・奥ゆかしさ・凛々しさのような意味も込められているようだ。

 「立浪」の瓦はまさに火事除けを表現。これは新しそうな瓦だがリベンジならず。飾り瓦には立浪の造形がかなり多いのはやはり火事には注意を払っていた証拠だ。

  

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