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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

袋井市の医師浅羽佐喜太郎の志

2013-10-01 20:55:06 | 歴史・文化財
 一昨日放映された史実をもとにしたTBSドラマ「パートナー」を見る。
 フランスからの独立をめざす革命家「ファン・ボイ・チャウ」を支援する浅羽町の佐喜太郎のいのちがけの物語だ。
 ホーチミンが独立運動を立つ前の時代だ。

 
 浅羽の尽力でベトナム青年の日本留学が実現し、一時は200人もの留学生を受け入れる「東遊運動」として反仏闘争が広がる。


 しかし当時の日本は「日仏協約」を結んで西側に立ち、留学生を退去させる。
 浅羽は非合法のさなか彼らを物心両面で支えていく所がみどころでもある。

         
 その1年後、浅羽は43歳の若さで結核で倒れる。
 チャウたちはいのちがけの浅羽の支援に感謝し、顕彰碑を浅羽町の常林寺に建立(1918年)する。
 
                   
 浅羽役の東山紀之が好演している。
 欧米列強の植民地争奪戦のなか、日本がロシア・清に勝利したことは、その内実は別としてアジアに大きな影響を与えた。

                        
 今年、ベトナムの「ファン・ボイ・チャウ記念館」で日越友好記念碑が建立されたのを知る。
 このことはマスコミの多くは沈黙している。
 明治日本に武骨の「シンドラー」がいたことを誇りに思う。     
 
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昭和恐慌が農村を襲った名残、「時局匡救事業」

2013-09-04 21:31:53 | 歴史・文化財
 先日、浜松市春野町里原の天神神社に寄ってみた。
 鳥居は真新しい。
 国道すぐ脇にある。
 そこに、古い石の用水路の断片がひっそり置いてあった。

                               
 石には「昭和7年時局匡救事業」と刻んであるようだ。
 昭和7年(1932年)といえば、5・15事件で犬養首相が暗殺され、傀儡の満州国建国宣言がなされている。
 
 その3年前は世界恐慌による農村経済の疲弊、前年には満州事変による中国への侵略開始と、生活も精神も困憊した時代だった。

                   
 そんなときに景気対策として高橋是清蔵相が出されたのが「時局匡救(キョウキュウ)事業」だった。
 日本版ニューディール政策だ。
 これによって農村の雇用と需要を創出しようとしたのだ。
 それが地域にとっていかに大きかったかが、案内板から伝わってくる。

         
 しかし、まもなく2・26事件で高橋蔵相も暗殺され、軍事費が拡大されていく。
 戦争の加害責任が充分問われないまま現在に至る。
 月日の経過は2本の杉の大木がつながっていることからもわかる。

 
 里原の田んぼは黄金色に輝いている。
 江戸時代から農民が開削してきた用水路が今も健在であることの証左だ。

 時流に媚びへつらうのではない歴史の主体者を、本当は時代が待ち望んでいるのではないか。
 「そんな歴史を刻んでいきたいものだ」と、用水路断片を見て思うのだった。
 
 
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池が主役の新宮祭

2013-07-22 22:05:39 | 歴史・文化財
 山の頂上に池がある不可思議なたたずまいのある春野町新宮池。
 ここの祭りが素晴らしいと聞いて一昨日の夕方に駆けつけた。
 神社前にはすでに提灯を掲げた船が待機していた。

                          
 山の上だから川はもちろん存在しない。
 池の底から湧き水があるという。
 伝説では諏訪湖から繋がっているという。

                
 神事が終わるとお囃子がなり、客を乗せた船が出航する。
 だんだん暗くなるとクライマックスとなる。
 提灯の灯りが池の面でユラユラする。
 打ち上げ花火も空に池に躍動を映し出す。

    
 池の上を走る花火も見所だ。
 こじんまりした村びとの心づくしが伝わってくる。
 三島から駆けつけた人が「ここの祭りは素晴らしい」としばし見入っている。

 はでな都会の祭りとは明らかに違うが、参加していて心に潤いを与えてくれるのが、ここの祭りだ。
 平日はほとんど人と出会わない。
 しかしさびれているとは感じない静寂さが心を凛と打つ。
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「宗門人別改帳」を初めて見る

2013-04-19 22:51:11 | 歴史・文化財
 先日行われた歴史民族研究会で「宗門人別改帳(シュウモンニンベツアラタメチョウ)」の原本を初めて手にすることができた。
 これは講師の木下恒雄さんが近所の唐紙の裏張りから発見し、大変な手作業で剥離・編集したものだ。
 
 
 時代は文化十年(1813年)、場所は堀之内村(現春野町)である。
 「修験道」「禅宗」など、宗門ごとに文書がある。

   
 表紙は「宗旨御改判形帳」とあり、内容は、家族の名前、属する寺院・宗派、年齢、続柄が4段にわたって書かれている。

         
 この「改帳」は、キリシタン対策でもあるが、事実上の戸籍である。
 つまり、寺院が行政の末端を担ったわけである。
 それは同時に、仏教が堕落していく過程でもあり、明治の廃仏令のエネルギーともなる。

              
 葬式仏教に転落してしまった堕落は、いっこうに宗教改革がはじまらない。
 そのルーツがここにある。
 徳川家の民衆統制マジックのすごさがいまだに効いているのである。
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「地券」の実物を初めて見た

2013-01-23 20:53:13 | 歴史・文化財
 先週、歴史民俗研究会があり、そこで初めて「地券」を見せてもらった。
 地券は、明治6年(1873)の地租改正法によるもので、物納から金納にすることによる税収の安定がねらいの一つ。
 さらには、土地の私的所有権を認める証券でもある。

                   
 しかし、農民にとっては重税は変わらず、各地で一揆がおきたそうだ。
 そこで明治政府は、税率を100分の3から100分の2.5に変更する。
 
 画像にはその税率がしっかり書かれている。
 土地の売買はこの地券で行う。

 地券の紙は「洋紙」だが、当時は西洋から大量に洋紙を輸入していた。
 そのため、自前の製紙会社が必要とされた。
 王子製紙が山と川の立地条件がよい春野町にやってきた理由でもある。 
 
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日本で最初にパルプ工場を開いた王子製紙気田工場

2013-01-09 19:57:11 | 歴史・文化財
 先月の18日、「王子製紙と気田(ケタ)」をテーマに遠州民俗歴史研究会が開かれた。
 地元の郷土史家木下さんの熱弁は止まらない。
 その知識と記憶の豊富さにまたまた圧倒される。
 講義の後に近くにある元王子製紙の製品倉庫を見学する。

        
 建物の前には「木材パルプ発祥の地」と刻まれた石碑が建っていた。
 明治初頭には大量の洋紙を輸入していた日本のとって、自力生産は急務だった。
 そこで、官僚だった渋沢栄一が起業した王子製紙は、従来のボロ布ではなく木材から洋紙を製造する工場として、明治22年、現浜松市春野町気田に工場を開いた。

               
 気田になったのは、適材のツガ・モミが豊富にあったこと、気田川を船で利用できること、地元からも嘆願書があったことによる。
 工場は外壁に赤レンガと木造の二重構造にして、山間地の寒暖対策を施した和洋折衷の建造物だった。
 工場が撤退した後の赤レンガは近所の塀などに今も使われていると言う。

                     
 建物の天井は格子天井なのが日本的だった。
 室内では帆船の模型が展示されていた。
 風景としてはのどかだが、山林・町の形成をめぐってうごめく利権の攻防があったという。

 王子製紙が原木を買う前に買占めがあり、その王子製紙が買った山は国・営林署が買うと言った具合だ。

      

 地元から工場労働者が生まれ、また全国からも労働者が集まり、300人の従業員が形成される。
 そのうちに、原材料のモミ・ツガがなくなり、また水害被害の多発により、大正12年工場は佐久間の中部工場とともに閉鎖。

 近代日本に貢献した工場跡は今、ひっそりとたたずんでいる。
 炭鉱街と似ているかもね。
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田中正造とイシミカワ!?

2012-07-09 19:37:17 | 歴史・文化財
 庭はイシミカワ(タデ科)がぐんぐん枝を伸ばしている。
 その正三角状の葉は、これからの日本の行方を提起しているかのように思えた。

 というのも。
 
 「真の文明は
  山を荒らさず
  川を荒らさず
  村を破らず
  人を殺さざるべし」

 足尾鉱毒事件で民衆とともに闘った田中正造の言葉が、現代を抉る。

                                              

 原発を許してしまった現代人の効率・便利追求は、
 富国強兵に奔る明治日本の利潤・国益追求と、だぶってしまう。

 鉱毒の遊水地に水没させられ、村を強制撤去させられた谷中村と、
 現代の東北の被災地とが、だぶってしまう。

 イシミカワはそんな人間中心主義の便利さとつましい最低限の暮しとを提起して、
 「あんたは、どちらの針路を選択するのかね」
 と、オイラに迫ってきたのだ。



 歴史に学ばない日本は過ちをまた繰り返す。
 明治以降からの日本は、戦後より戦前の軍国時代のほうがまだ長かったのだ。
 つまり、圧倒的な大衆は軍国日本を支持してきたわけだ。

 田中正造は今日の日本の現状をはらはらして見ているに違いない。
 現代に田中正造を輩出しなければならないぞ。
 松下政経塾も限界だね。
 大阪の橋本政経塾も底が浅い。

 総理官邸前の15万人の「反原発」デモを見ると、まだ健全な日本人がいることにとりあえず安堵する。
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寺には初代米国公使館跡があった

2012-05-15 10:06:15 | 歴史・文化財
 寺の境内には初代米国公使館跡の石碑があった。
 下田の総領事ハリスが日米通商条約により初代公使として江戸にのり込んだというわけだ。(1859年~1871年)
 ハリスはペリーと同じく「力と誇示と示威こそが交渉を成功させる手段」だとする辣腕の砲艦外交家であることは知られていない。

                 

 したがって、水戸浪士が公使館の一部を焼き討ちする(1863年)理由もあながち全否定はできない。
 当時の不平等条約の片鱗は、現在の沖縄に象徴される日米地位協定にも脈々と継続されている。
 東洋人に対する米国の植民地主義はいまだ生きている気がしてならない。

              

 しかし、敵をも礼賛する日本人のことだから、石碑を建ててしまう。
 ハリスの彫刻は朝倉文夫、スポンサーは三井物産創設の益田孝と王子製紙初代社長の藤原銀次郎。
 この日も歴史探訪ツアーで30人近い人が訪れていた。
 きっと、うわべだけの説明で納得させられるのだろう。
 
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祖霊舎が山里の廃屋で留守番!?

2012-03-04 21:08:23 | 歴史・文化財
 山深い眺望の良い春野町の廃屋で「祖霊舎」らしきものを見た。
 神道では死者の魂は子孫を見守るものとして家に残り、「霊代(ミタマシロ)」という位牌(仏教でいう)のような器に移され、この神棚に納められるという。

 現在この立派な家屋敷を守っているのは、この小さな「祖霊舎」だけである。
 これが玄関頭上に配置されるべきものかは定かではないが、とりあえずそれで荒廃を防ぎ、静かなたたずまいと威厳とを保持している。



 街なかではこうした標識を見ることはなかなか少なくなった。
 時代という押し寄せる波は、ときに津波となって過去を清算してしまう。

 そんなときどういうものを構築するべきかが我々に問われている。
 それを受け止められる感性を研かなければならない。
と思いながら、きょうもよだれをたらしながらうたたね寝をしてしまう。
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今年へ!「鎮魂」

2011-12-31 19:11:57 | 歴史・文化財
 隣接する市の公園の高台には、日清・日露戦争の戦没者慰霊塔がたたずんでいる。
 テレビではドラマ「坂の上の雲」で当時の戦況を詳しく放映していたが、ここの小さなムラからも犠牲者が輩出していたのだ。
 この高台の近くにはもうひとつの戦没者慰霊塔がある。

              

 大正34年と刻まれているが、いつのことを示しているのかはわからない。
 それは大正元年から数えると太平洋戦争の終結に当たるが、このムラから16名の犠牲者の名前が刻まれている。
 大正9年からの銘があるので、第1次世界大戦から太平洋戦争までの戦没者ということかもしれない。

                       

 今年が幕を閉じるにあたって慰霊塔をあげたのは、とくに原発による人間の・国の人為的な被害と共通するものを感じたからだ。
 同時に、自然災害のはかりしれないエネルギーからなにを教訓とするかが問われている。

 これらのことから、オイラが過疎の地で荒地に汗を流すことの選択の確かさを再認識したともいえる。
 そして、それを支えていただいた地元の人たちの暖かさ、今まで都会で支えていただいた人たちの暖かさがジワジワとオイラの心に沁みてきている。

 ありがたい。合掌。 
 「一陽来復」 

 
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