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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

国学にルネッサンスは来るのか

2017-02-10 22:00:58 | 歴史・文化財
 縣居神社の隣は、立派な「浜松市立賀茂真淵記念館」があった。
 退職校長らしき学芸員さんがつきっきりで説明してくれた。
 実に丁寧でよどみない説明に頭が下がる。
 ただ、入館者がずっとオイラ一人だけだった現実が気になる。

                                 
 真淵の功績は、従来の仏教・儒教などの外来の思想を排し、日本固有の精神のありようを「万葉集」などの古典から提起したものだ。
 古代から明治までその外来思想の影響は庶民の生活まで貫徹していたといっても過言ではない。
 その中で、朱子学の封建的な教えを否定し作為のない自然の心情・態度を唱えたのは、日本のルネッサンスと言ってもよい出来事だった。
 しかも、江戸幕府の政権の中枢にまで招聘されるほどだった。
 
                                 
 弟子の本居宣長との出会いも戦前の教科書に掲載されるほどだった。
 真淵は万葉集の凛とした「ますらおぶり」、宣長は女性的で自由な「たをやめぶり」にこだわり、閉塞的な建て前社会に一石を投じた。
 しかしながら、幕末の尊王攘夷運動や戦前の軍国主義に利用されてしまった。

     
 真淵や宣長の業績に比肩する改革者は現代にいるのだろうか。
 国学は破綻したのだろうか。
 少なくとも、いまの神道のていたらくの現状からは何も生まれないが、戦前と現代の過誤を見つめた中から新しい「まごころ」イズムが生まれても不思議ではない。

 この記念館や内山真龍資料館は民間に委ねて、新しいコンセプトと複合施設にしていく発想を持たないと、天下りの受け皿に堕したり赤字予算を生む元凶になる。
 先人の偉業を生かすには現代に連動したイノベーションが必要だ。
 最近の博物館・水族館・動物園の斬新さに頭の固い教育委員会は学ぶべきだとぶつぶつ言いながら帰路に就く。
コメント (2)
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迷宮の先は神社だった

2017-02-09 22:34:13 | 歴史・文化財
 また迷ってしまった。
 浜松の街中を出るたびに迷ってしまう。
 田舎者には表示がじつに不親切だ。
 結局、賀茂真淵を祭神とする「縣居(アガタイ)神社」に来てしまった。

                                       
 「縣居」とは田舎の住まいという意味だそうだが、真淵が日本橋浜町に住んでいた所をさし、真淵は通称「縣居翁」と言われていたそうだ。
 天保の改革で有名な浜松城藩主の水野忠邦や真淵の弟子の奔走で天保10年(1839)東伊場賀茂神社内に「霊社」を建立。
 大正9年に現在地に移転したが、戦火にあい、昭和59年再建。

                 
 灯篭に刻字してある「國光赫々(カクカク)」「神徳昭々(ショウショウ)」という言葉に国家神道の威光が偲ばれる。
 境内にも「敬神は修養の基」というような石碑・歌碑などが整然と並んでいた。

 迷っても意外性を楽しむのは本意だが、時間や相手という制約があるとストレスはやはり高まる。
 迷った原因は、国道152号線が離れて二つもあったことだった。
               

                                           
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往時の息吹が残っている犬居「熱田神社」

2017-01-18 21:04:55 | 歴史・文化財
 天竜の「犬居」と言えば、秋葉詣でのベースキャンプであり、旅館を中心とした街並みが残されている。
 そのはずれに、杉の大木に囲まれた「熱田神社」がある。
名古屋にある「熱田神宮」は伊勢神宮に次ぐ格式の神社だ。
 注連縄は横一直線となっていて、竹が心棒になっているらしい。
 本殿や境内を細かく見ていくと手の込んだ様式や奉納がなされているのがわかる。

                                    
 石の鳥居は大正九年(1920年)に「犬居青年団」が教育勅語渙発(カンパツ)三十年を記念して奉納したものだ。
 「渙発」とは水が散るように四方に詔勅が発布するという「ありがたい」お言葉なのだ…。
 教育勅語は「国民の忠孝心」が「国体の精華」であるとして戦前の戦時体制を精神的に支えてきた道徳訓。

       
 境内には鳥居をはじめ多数の「常夜灯」が林立していて往時の隆盛がうかがわれる。
 その多くが大正時代であるのも注目だ。
 その要が「青年団」だったわけで、一人前になっていく地域の学校でもあった。
 わが集落の団塊世代前後のおじさんたちは、祭りのときの演劇上演や青年団どおしの交流の想い出を熱っぽく語るのには、そうした理由がある。
 現代にはこうした一人前になるシステムが喪失しているので、幼稚なおとなを輩出しているのが現状だ。

                                       

 境内には「御供米田 2反9畝21歩」と刻印された伊藤一郎さんの寄進の石碑もあった。
 「犬居の祭り」というホームページには戦前から現在までの写真も見られる。
 それほどに地域では大切にされている空間でもあるわけだ。
 しかし、祭りの担い手がいない痛みを持ちながらのスレスレの生命線と対峙している現状にある。
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秋葉山と天狗

2017-01-17 19:51:06 | 歴史・文化財
 一昨日の「森林散策会」の犬居城への入り口近くには、小天狗と高下駄のオブジェがあった。
 秋葉信仰には天狗は欠かせない。
 もともとは神社ではなく「秋葉寺」(シュウヨウジ)の寺院のほうが奈良時代から江戸時代まで中心的に信仰されていた。
 それが明治の神仏分離令や神道が国家神道に採用され、また寺の内部抗争などもあり、明治6年に廃寺となる。
 そのとき神社関係者などにより建物や調度品などが破壊・廃棄されたらしい。

                                    
 その後、明治13年に秋葉寺の再建が許可されたがダメージはいまだに大きい。
 信州戸隠出身の「三尺坊」は実在の人物らしいが御所の火事を天狗姿で鎮火させた伝説が有名だが、詳しいことはわかっていない。
 その彼が白い狐に乗って秋葉山にやってきたという。
 飛来した時に気田川でステップして秋葉山に降臨したときに残された高下駄の跡と同じサイズのオブジェだそうだ。
 それ以来、秋葉山と天狗がつながり春野町が「天狗の里」になったわけだ。

       
 秋葉神社下社の入口の案内板の上にも小天狗が遊んでいた。
 高下駄の小天狗とかたちがそっくりだがよく見ると微妙に違うのがわかった。
 どこが違うかわかったかな?

 秋葉神社の華麗さと秋葉寺の静寂さとが歴史の波乱とリアリティを語っている。
 それは仏教と神道の歴史と現在を根底から問うているように思えてならない。
 
         
 
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明治のレンガ積みトンネルの謎

2016-11-01 20:36:29 | 歴史・文化財
 一昨日歩いた天竜・二俣の景観・史跡は魅力がある。
 名主の田代家から歩いてまもなく、国道だった旧道の明治32(1899)年開通した「鳥羽山洞門」を通る。
 入り口上に名前のプレートがあったがはっきり読み取れない。
 トンネルの入口と出口はしっかり補強されていた。

                            
 トンネルの真ん中を見上げるとレンガ造りだったことがわかる。
 日本最古のレンガ造りの道路トンネルは、明治16(1833)年兵庫県鐘ガ坂トンネルという。
 しかし、そこはイベントのときだけしか開放しないらしいから、現役のトンネルとしては鳥羽山洞門は貴重な遺産ではないかと思われる。

                 
 鳥羽山の並びにある近くの国道にはよく利用している「鳥羽山隧道」がある。
 そこは東海道本線のバイパス線の旧「二俣線」(現天浜線)とぶつからないよう配慮されて、昭和17(1942)年に開通したもので踏切を横断しない。
 こちらのトンネルは静岡県の歴史的土木遺産として認定されている。

 素人感覚では「鳥羽山洞門」のほうこそ、「レガシー」として認定されてもいいのではないかと思うのだが。
 ちなみに、トンネルができていない明治2年に、北海道の名付け親・探検家の松浦武四郎がこの鳥羽山の峠を歩いている。
 まだまだ発掘されていない史跡が埋もれている天竜の要衝・二俣地域の魅力は尽きない。
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力道山と神風

2016-04-25 23:51:53 | 歴史・文化財
 昨日の二俣散策会で探索した奥の院・摩利支天堂のきめ細かな造営に感心する。
 天井を見上げると相撲力士の額が奉納されていた。
 そのときは暗くて解読できなかったが、あとで画像を見たら「力道山」と「神風」の名前を発見。

                         
 「関脇 力道山光浩」の名前があるが、その活躍はプロレスでしか知らない。
 また、「神風」は、相撲解説者としてしか知らない。
 歯切れの良い解説を思い出す。

 良き時代の相撲世界でもある。
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焼失した「戒光院」跡地に行く

2016-03-24 19:10:21 | 歴史・文化財
 2009年12月に放火で焼失した「戒光院」は、大正末に龍頭山から春野町内に移築されたものだ。
 跡継ぎがなく管理ができないことを悲観した長女の悲哀が跡地から伝わってくる気がする。
 建物の痕跡はなく本堂前にあった石灯籠が佇んでいる。

    
 
 本堂跡地を囲んで不動明王の使者という「八大童子」と「三十六童子」と思われる44の石碑が立っていた。
 それぞれの童子の名前を唱えると悪鬼が退散し、長寿をもたらすという。

                             
                          
 その隣には、不動明王の石碑が寂しくたっていた。
 火炎の不動明王は、この惨劇の事実をどう見ていたのだろうか。
 なお童子の石碑は、昭和58年に作成されたもので、移設してきたものらしい。

        
 荒涼とした境内のなかに、「奥田義耕の碑」がぽつねんと建っていた。
 明治6年に廃仏毀釈の影響で秋葉山の「秋葉寺」が廃寺となったが、明治13年に復興。
 過酷な修行で有名になった奥田義耕が多くの信者を獲得するなか、秋葉寺から独立して春野町「戒光院」で活躍する。
 王子製紙が撤退したため町おこしの夢をかけて住民の悲願をかなえたということらしい。
 山岳信仰の修行道場として宿坊もあったほど賑やかだったようだ。 

 秋葉山にまつわる波瀾万丈・栄枯盛衰の歴史がここにも刻印されていた。        
 
                          
                     
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桜と山と川とともに報恩碑

2016-03-04 21:03:11 | 歴史・文化財
浜松市春野町のにぎわいは王子製紙が気田(ケタ)地区に近代製紙工場を開いたことから始まる。
 そこに至るには、江戸後期に名主の和田正光や酒井十右衛門ら農民の尽力が大きい。
 原野を開墾したり、水を引いて新田開発をしたりして気田地区の基盤を形成してきた。

                            
 その場末にある桜を追っているうちに小高い「井堰山」(田持山)があり、「報恩之碑」があることを偶然知る。
 まだ新しい平成15年建立の碑だ。
 かつての地元リーダーは、財産や命をかけて地域の発展にかけていたのがわかる。
 そこには現在の政治家に欠落している魂の中心軸がある。

                            
 この小さな山の隣には、豊かな水量が流れ鮎が生息する「気田川」がある。
 この山の木を伐り出して水門を作り、水田が形成されていった。
 それを踏まえてか、山の中腹に「水天宮」が祀られていた。

        
                    
 人影は全くないが桜は早春を早くも独占している。
 麓の河津桜はすでに散り始めている。
 春一番最初に咲くというわが家の「彼岸桜」はまだ固い蕾のままだ。

 ウグイスの声はなんとか聞こえるが、まだ元気がない。
 張りと艶のある声はまもなくだと待っているんだけど。
                       
 
 
 
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牛若丸と天狗の彫り物だった

2016-02-12 20:41:56 | 歴史・文化財
 千葉市の千葉寺の境内に「瀧蔵(リュウゾウ)神社」という小さな神社があった。
 ちょっと見ただけで優れた彫師の作品であるのがわかる。

                          
 屋根で保護されているのでその内容ははっきり見えないが、祭りの山車に彫られているような繊細な彫刻であることが伝わってくる。
 境内の奥にあるのでうっかりするとその存在を知らないままやり過ごしてしまうかもしれない。

                            
 左右のにある脇障子にはそれぞれ人物が彫られていた。
 はじめは中国の有名な人かなどと勝手に思い込んでいたが、ちょこっと調べてみたら、それは牛若丸と天狗であるのがわかった。

                           
 牛若丸は天狗との戦いに勝ったことで「虎の巻」を伝授されたという伝承にちなんだものだそうだ。
 そのことで、源義経として出世していくきっかけとなった物語だ。
 こういう彫り物は日本の各地で作られているらしい。

 ほんとうに神社仏閣は知らないことが多すぎる。
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千葉寺(センヨウジ)の山門

2016-02-11 21:32:21 | 歴史・文化財
 先月訪れた千葉市の千葉寺(センヨウジ)。
 創建は奈良時代和銅2年(709年)という。
 千葉市では最古の寺院となる。

                            
 山門は文政11年(1828年)に作られていて、龍の見事な彫刻が施されている。
 鎌倉時代前から千葉氏が支配していて、その後その祈願寺として擁護されてきた。
 境内にある古蹟にはそれ以降の長い歴史が刻まれている。
 場所によっては、調査されていない貝塚もあり土器の破片も発見。

                           
     
 山門の金剛力士像は、左右に控えて佛を加護しようと睨みをきかせている。
 この像のいわれはわからないが、どちらかというと可愛い表情だ。
 まだまだ知られていない価値ある旧跡が埋もれている。
 また訪問したとき魅力の謎解きをしていきたい。

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