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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

二俣祭りの中心諏訪神社

2019-02-06 19:41:28 | 歴史・文化財
 二俣祭りには13台の山車があり、勇壮絢爛なまつりとして有名だ。その中心の諏訪神社に山車が集合する。往年の林業が盛んなときの勢いが祭りに山車に表現されている。250年以上は生きているという2本の神木、石造りの鳥居、本殿がすっきり並んでいた。

   
 石の鳥居は「報徳社」の「二俣社」が、明治33年(1900年)に奉納している。同年は、治安警察法が公布され、時局は日露戦争へとすすんでいく。また、石造の灯篭には、「御大典記念」と彫られている。昭和3年(1928年)昭和天皇が即位したのを記念に奉納したものだ。無産政党や団体の結成が始まるが検挙・弾圧も激しい時代でもあるのを天皇はどれだけ把握していたのだろうか、と今にして思う。

  
 鎌倉幕府成立は1192年とわれらは習ったが、最近の教科書は1185年に変更されている。神社の沿革には、鎌倉幕府成立後の1186年(文治2年)に遠江国守護の安田義定が立ち寄ったり、1572年(元亀3年)徳川に勝った武田信玄が来ているなど、神社がある二俣町は交通・経済の要衝であるのがわかる。
 神社の梁や彫刻を見てもかなり手が込んでいるのが伝わってくる。

                        
 屋根の鬼瓦には、諏訪神社の神紋「丸にカジノキの葉」が表現されている。カジノキは神社の神木のせいか、身近にはなかなか見当たらない。むしろ、桑とかコウゾとかのほうにあえる。ただし、葉はそれぞれよく似ているので同定は難しい。もちろん、和紙の原料にもなる。カジノキはこの神紋で生き残り戦略に成功している。   


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3体目の旧二俣町長・小沢義助像

2019-02-05 20:55:38 | 歴史・文化財
 明治35年(1902年)に浜松・旧二俣町長に就任した小沢義助翁。大正5年(1916年)までの間に、二俣小・町立実科高等女学校の創立、天竜川鹿島吊り橋の架設などをはじめ地域に大いに貢献した。それを記念して、昭和8年(1933年)に全身立像の銅像が建てられる。しかし、時局が戦時体制で金属を供出したため撤去したという。その後、残された台座の上にコンクリート製の胸像を昭和32年(1957年)に再建。


        
 その後、平成17年(2005年)かつての台座の上に三体目の像を再建。台座があまりに立派。その台座は「アールデコ」風の幾何学的な模様であることで当時の先端デザインを採用しているのがわかる。「小沢義助君像」の文字は、29代総理の犬養毅による。
 3回も像が作られるほどに地域から信頼された町長だったということだ。気に入った木造トイレの近くの旧役場に鎮座している。     
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武田から徳川への変遷語る「蔵雲院」/「ぷぶふの日」②

2018-11-11 20:13:21 | 歴史・文化財

 次に向かった場所は、天方城主・天方通季(アマガタミチスエ)が1505年(永正2)開創した「蔵雲院」だった。禅の曹洞宗らしく境内はきれいに清掃されている。

                   

 立派な山門への道は急階段だった。石段はかなり老朽していたので迂回路から山門に向かう。山門前には「山門禁葷酒」(葷酒、山門に入るを許さず)の石碑があった。「葷酒」(クンシュ)とは臭みのある野菜・肉や酒の持ち込みを禁ずるもの。つまり、修行の邪魔になる刺激のあるものは通行できないという禅宗らしい掟だ。住職だった鈴木俊隆老師は、アメリカで禅を広め、アップル社のジョブスが彼の本を読んで影響を受けるなど、海外で有名だ。

     

 その足で、天方城主三代の墓を訪れる。中央に開創の天方通季、左右に通稙(ミチタネ)・通興(ミチオキ)の「宝篋印塔」が鎮座している。通興は今川家に忠節を尽くした関係で武田側についていたが家康側の軍門にくだる。通興の子「通綱」は、吉良上野介の三女を正室、家康の嫡男「信康」の自刃を介錯したことで有名だ。

                 

 境内には100年を越える大木を伐採した跡が残されている。むかしは鬱蒼とした木立に囲まれた山中にあったように思われた。寺の裏は真っ直ぐな杉林を上に見る。

 寺の高台から森町を一望する。連続する長い丘陵に圧巻される。とてもカメラには収まらない。近くにある天方城は武田・徳川軍の激しい攻防があったことで知られている。森町には参戦して討死した武将や兵士の塚があちこちある理由もわかった。家康も敗走したこの界隈で勝利を得られなければ徳川時代はなかったかもしれない。そんなつわものどもの血と汗と夢とが緑なす山間地に刻まれている。

 

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村の八幡宮

2018-09-13 21:32:13 | 歴史・文化財

  しばらくハンバーグを食べてないなと久しぶりに街に行ってみたが、ちょうどお昼時で店が超混んでいたので挫折。Uターンしてみたら近くに神社があったので気分転換にとまわりを散策。

 入口の石柱には「村社八幡宮」と刻印してあった。「村社」とはまさに村の氏神として明治の太政官布告で格付けされた神社。

  

 戦後、GHQの干渉を恐れ刻まれた文字部分をセメントで埋めた神社も多かったらしい。そうしたせこい行為は必死にしたものの、神社が戦時体制を支えたという反省を込めた神社は残念ながら出会ったことは一度もない。

 さてそれはともかく、本神社の舞台の広さは格別だ。建物も優美な様式で建てられ村の経済力の豊かさを彷彿とさせる。

        

 舞台の奥には小さな太鼓が見えた。祭礼にはこうした楽器や神楽がこの舞台で展開されるのを思い描く。明治に布告した「社格制度」は戦後廃止され、当時全国で11万社のうち、「村社」は約45000社あったという。

 ちなみに、1871年(明治4)7月、府県社・郷社・村社・無格社という神社の等級化を布告する。明治元年に神道を国教とする「神仏分離令」を出すが、廃仏毀釈運動へと過激化していく。天皇の葬式は仏式が主流だったが明治以降は神式のまま変更されていないようだ。そんな歴史の変遷を刻印された「村社」のたたずまいは、だからこそ静寂を貫いているようにも思えた。

 

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京丸伝説・王子製紙気田工場の覚書

2018-08-24 20:22:36 | 歴史・文化財

 久々に行った図書館で借りた本の一冊は、『「京丸」私考』(発行・春野町教育委員会、編纂・春野町文化財保護審議会、平成9年1月)だった。京丸はすぐ近くの山あいにある地域だが今は人が全く住んでいない。南朝の崩壊とともに御醍醐天皇の皇子たちが遁走してきた伝説が北遠一帯にあるが、それに関係する末裔が住んでいたのが京丸だという説も紹介されている。

 本家の藤原家の家宝には、参議・歌人の藤原長親・公清につながる歌集10冊や雲上人の衣装などがあったということから平家落人伝説もある。生業は木の器製作などの「木地屋」をやっていたらしく、それにまつわる伝説も近隣にある。前春野町長の天野安平氏が様々な説を集めていた史料をまとめたものだが、真偽はともかく、春野町いちばんの幻の辺境には違いない。

 

                

 もう1冊は、『王子製紙気田工場おぼえ書』(発行・紙の博物館、昭和57年7月)だ。従業員だった佐藤秀太郎氏がまとめたものだけに、正確な史実が残されている。渋沢栄一の肝いりで、洋紙の85%、新聞用紙の95%(昭和8年)を占めるほどに成長した王子製紙だが、その礎となったのが天竜川気田地区の工場だった。つまり、日本の洋紙製造の発祥の地が春野町気田だったわけだ。

 

               

 工場操業にはかなりの困難が描かれていた。当時の明治20年ころの東海道線は磐田が終点で、東京から気田に行くには、手前の袋井駅で降りて、そこから森町・三倉へは人力車しかなく、気田へは徒歩だった。大正半ばには二俣から犬居までは「ガタ馬車」が通るようになった。しかも当時、名古屋から給料などの現金を気田まで運搬するときはピストルをもって護送していたという。

 また、大型の機械は天竜川河口沿いの東海道線途中に臨時荷卸場(「池田」)を設置してもらい、そこから船で運搬した(その後は、反対側の「中ノ町」に移転)。船の運搬も既成の船では大型機械を運搬できず独自に船を造船したり、川中に機械を落したりの逸話も残っている。欧米に何度も学びに行ったリーダーの大川平八郎も独自に機械を改良するなど、悪戦苦闘の幕開けとなった。

 そんな中、中山間地であった小さな集落に「まち」が急速に形成されたが、現在の気田中心街はシャッター通りになっているのが実情だ。そんな山あいの盛衰の歴史が所々に刻印されているが、気田地区はそれでも春野町の現状を表現しているへそでもある。

   

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急峻な山に勇壮な八幡神社ーぷぶふの日③

2018-05-23 20:20:31 | 歴史・文化財

 静岡県下で二番目に古いと言われる社殿がある「八幡神社」が突然現れた。急坂を上り詰めると威風堂々とした風格のある社殿だった。1552年の棟札があるというから、室町時代の遺構を継承しているという。信州と遠州を結ぶ交易の「塩の道」であり、秋葉山に向かう信仰の「秋葉街道」でもあった。

 

     

 鬼瓦のてっぺんには、お経の巻物3巻が乗せられており、その下に「綾筋」という2本の「へ」の字直線があるが、その意味についての資料は見当たらない。綾筋の下には「蓮の花」が線で表現され、中央に八幡の「巴」紋がある。左右の両脇は雨が侵入しやすい場所なので「雲」を飾り、雨の侵入を防ぐ役割がある。「雲」は建物が火事になったとき天から雨雲を呼びその雨で火を消すという意味があるという。

 

  

         

 社殿の彫り物は見事な作品になっている。デザインの「松」と「鷹」は掛軸や襖にもみられるが、「松」は生命力・不老長寿、「鷹」は力強さを表す。それは戦国時代から江戸時代にかけての武士の祈願に背景があるようだ。家康軍が武田側の犬居城を攻める前にこの神社で「武運長久」を祈願している。

 また、「鳩」は、西洋では平和のシンボルだが、日本ではなんと軍神の八幡神の「神使」なのだ。つまり戦争に勝つための象徴だったのだ。こうしたちょっとした飾りから時代が見えてくる。戦前の神社が果たした役割を今日いまだ総括されていない。

  

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廃校は茶工場となりそして

2018-03-04 20:50:03 | 歴史・文化財

 春野町の歴史といえば、その中心の町は「犬居」だった。歴史に出てくる資料の殆んどが「犬居」で、往時を偲ぶ旅館もいまだに残っている。その隣の地域に「廃校」があった。言われてみてはじめてそこが小学校であることがわかった。その玄関の屋根を見ると、「学」の文字がある瓦を発見。

 

           

 山に囲まれた学校としてはL字型の校舎だったので、そこそこ生徒は多かったに違いない。タンクや煙突は廃校後に茶工場に活用された痕跡がある。瓦葺の校舎が珍しい。今は倉庫になっているようだ。

 

           

 木造の教室の周辺はさすが荒廃が目立つ。少子化を克服する対策に効果を出してきたフランス・スウェーデンは、保育充実・育児休業制度・年金加算・所得減税・高校までの学費無料などきめ細かな対策を打ち出している。それ以上に、地元に仕事がないというのが致命的だ。

 その意味では、自分の生き方をどの照準にあわせるかが問われているともいえる。ただし、最近は生活は貧しくとも自分にあった生き方・働き方をあえて自分で選択している若者がちらほらでてきているのが頼りだ。  

 

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武兵衛上野に出没4/銅像が動いた!?

2018-02-13 21:55:51 | 歴史・文化財

 上野公園内に「正岡子規記念球場」という東京都が管理する球場がある。日本に野球が紹介されたのは明治初期だったが、その野球用語を日本語訳したのは正岡子規でもあった。明治23年に子規はこの空き地で試合をしてキャッチャーをしていた。

 白球型の大きな石板には「春風や まりを投げたき 草の原」の句が刻まれていた。長らく病床にいた子規の熱い思い出が滲み出ている。

 

             

 国立東京博物館の庭に「文官」の石像が立っていた。18~19世紀の平壌のものらしい。「文官」とは科挙試験に合格した朝鮮の高級官僚だ。表情を見ると封建的国王の意思を支えようとする追随の姿勢を表現しているように見える。朝鮮統治時代に日本にやってきたものだろうか。

 

 

 公園の噴水広場に西洋風の銅像があって、なぜここにこんなものがあるのかと思っていたところ、中国人らしき夫婦が写真を撮っているのを見たら、なんと、その銅像が動いたのだった。そういうことだったかー、やられたねー。

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武兵衛上野に出没3/本命の南方熊楠

2018-02-12 20:03:26 | 歴史・文化財

 武兵衛が上野に参上した本当のねらいは、国立科学博物館主催の「南方熊楠/100年早かった智の人」企画展へ行くことだった。彼の日記やノートはびっしり細かい英文・日本語や彩色されたきのこや粘菌が描かれているのを初めて見た。

 

               

 今回は、森羅万象をあまねく探究した「研究者」としてばかりでなく、詳細な資料を収集・蓄積して「情報提供者」としての姿が近年評価されてきたというのが見どころのようだ。

 また、日本の自然保護運動の黎明と言われた神社合祀反対運動はあまり知られていない。明治政府の神社合理化に対して神社が保有してきた自然が壊滅することへの異議申し立てだ。官憲に逮捕されたりしながらも在野の学者を貫いた。彼の先見の明に時代がついていけなかったのだ。

 

        

 科学博物館にはシニアのボランティアスタッフの姿が目立った。その生き生きした説明する姿に第二の生きがいを見出した見本がある。年老いたらこうした社会貢献をするいきざまをもっともっと紹介してほしいものだ。   

 

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武兵衛上野に出没2/彰義隊墓へ

2018-02-11 20:58:53 | 歴史・文化財

 慶応4年、上野の山にこもった彰義隊は、官軍の大村益次郎指揮による砲弾攻撃で一日足らずで壊滅される。200体以上の死体が放置されたが、住職らの奔走で遺体を火葬。生き残った小川興郷(オキサト)は、明治14年(1881)そこに墓石を建立。

 

 

           

 墓石には山岡鉄舟筆による「戦死之墓」とだけ掘られていた。賊軍となった彰義隊の名はない。その墓石の前に小さい墓石がある。「彰義隊戦死之墓」と刻まれたその小さな墓石は、明治2年(1869)、子院の住職が近くに埋納したものという。

 

               

 その近くを歩いていたら、「博士王仁碑」という大きな石碑に出会う。「王仁」と言えば、5世紀に「論語」「千字文」を持って百済から日本に渡来した学者で、日本に漢字を伝えた。

 

               

 立派なレリーフもあった。ただし、王仁博士の存在や史実については賛否両論があり不明なことが多いという。とはいえ、中国や朝鮮からの渡来人が日本に果たした役割が大きかったことは間違いない。

 上野公園は、古代から幕末・近代へ、歴史が凝縮されている「るつぼ」だった。

 

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