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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

「あしわら様」に会いに行く

2021-01-17 21:27:39 | 歴史・文化財

昨日の「天王の森」の先に「あしわら様」という祠がある。祠の前は旧道のメインルートだった。ここは峠となっていてムラとムラとを結ぶ分岐点でもある。これから長い異界への旅をはじめるにあたって、旅の安全を祈る場が「あしわら様」だ。杉と檜の巨木の根元にある。

   

 旅の安全はもちろん足の悪い人も遠くから祈願にくるという。そのときに、珍しい石・穴あき石や靴(昔はわらじ)を持ち寄ったりする。また、「柴立て」といって常緑の枝を周りに何本か挿して奥山に入る心意気を入れたという。新年には地元の有志がやってきて「柴立て」をしてお参りもしている。

           

 大木には直径5cmほどのツルが伐られずに上に伸びているのも貴重だ。太いそれが数本もあるが、フジなのかアケビなのかは春にならないとわからない。葉があればなんとか同定できそうなのだが。しかしこんな太いツル植物はなかなか普通の山でも会えない。いかにも、鬱蒼とした結界となっている。

 

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鳥羽山城を侵攻!?

2021-01-12 23:17:43 | 歴史・文化財

 久しぶりの街中にでかけたとき、ほんの少しの空き時間ができたので近くの鳥羽山城に行くことになった。以前、散策会で訪れたこともあったが山城の地味な魅力はわからなかったころだ。時間がないのでまずは山城の玄関である「大手道」から一気に突入する。この先に本丸がある。

 桜と紅葉の名所でもあるここは今ではハイキングにも人気があり公園にもなっている。久しぶりのしっとりとした雨に濡れた階段には赤い落葉の絨毯が迎えてくれた。家康が隣の武田軍が居座る「二俣城」を奪還・攻略するためここに本陣を築いたところでもある。

    

 ところどころに「野面積み」の石垣が見られる。山城ファンにとっては城の遺構がたまらないほどの箇所が発見できそうだが、不勉強のオイラには足早にスルーするしかない。浜松市も並みなみならぬ調査で発掘と保存を手掛けたのがわかる。それほどきれいに整備されている。

 二俣城は甲斐を南下する武田軍と駿府側の防御の徳川軍との軍事的拠点だったが、この鳥羽山城は城主や家老の住まいとしても利用されたようだ。また同時に、迎賓館のような外交施設だったらしく、本丸のそばには枯山水の庭園もあった。その遺構の存在は山城としては稀であるという。そして天目茶碗などが発掘されていることからもそれはうかがえる。

  

 天守閣らしき建物からの眺望は見事だった。目の前に天竜川が悠々と流れており、遠くは浜松の街並みを展望できる。この地域の「二俣」は、山間部と平野を結ぶ流通の拠点でもあった。とくに山林運搬の基地として昭和の時代まで栄えていた。二俣を歩くと古風な蔵にたびたび出会う。芸者をあげてどんちゃん騒ぎしたという山林地主や関係者の話もよく耳にする。今は往時の勢いがなく商店街もシャッター通りとなってしまっている。

 

 二俣は同時に信仰の交通路にあった。秋葉神社や近くの光明寺への道すがらには、貴重な文化財の跡があるのに、なかなか発掘・活用されていない。地域の宝を共有・発掘していく人材がいないのだろうか。もったいないことだ。オイラの住んでいる中山間地にはこうした名所旧跡なるものは皆無と言っていいのに。そんなことをブツブツ言いながら城跡を駆け巡ったが、つぎはもう少し時間をかけて「国破れて山河在り」や栄華のあれこれを満喫してみたいものだ。

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白金長者が開拓した足跡 (2) 

2020-12-18 20:06:38 | 歴史・文化財

  日本画壇に彗星のように現れた夭折の速水御舟(ハヤミギョシュウ)は、吉田幸三郎の友人でもあった。御舟が交通事故で左足首を切断するも画業の情熱は変らず、その後彼は幸三郎の妹・弥(イヨ、弥一郎の四女)と結婚し、吉田邸に新居を構える。そこで個展も主宰する。

 焚き火に群がる蛾を描いた御舟の「炎舞」(山種美術館)は生と死との相克を迫ってやまない。大正14年(1925年)、家族と共に軽井沢に滞在して毎晩のように焚き火をしてそのスケッチをしたという。そういえば、わが常設焚き火場にも火に向かって飛んでくる蛾に驚愕したことがあった。

          (愛知県美術館から)

 御舟はそこで、目黒から西東京を望む郊外風景を描き、「林叢」のなかの洋館を抽出した作品も描いていた。それが当時としては珍しい洋館のある白金村なのだろうか。幸三郎は、御舟の鑑定や著作権管理者にもなっているばかりではなく、浄瑠璃の義太夫節以前に流布した三味線の「一中節」(都大夫一中が創作集大成)の保存や能の囃子方の後継者育成、さらには「大和絵」保存等日本の伝統芸術全般にわたって活躍・貢献している。

         

 境界ウォークの当日、地元在住の星野光昭さん(画像右端)をゲストにお呼びした。星野さんの話によれば、吉田邸内には能舞台もあり、そこは子どもらの絶好の遊び場になっていて、森蘭丸の真似をしたりて遊んだこともあったと回想してくれた。ダンディーな星野さんは高貴さと柔和さで往時の長者丸のさわやかさを体現してくれたのだった。

 長者丸に日本の文化を守り発展させた骨太の実業家と文化人がいたことをあらめて発掘した思いだ。それにしても今日の実業家は目先の利益ばかりを追い求めるていたらくは日本をますます劣化させている。そんなとき、長者丸の緑を奪い剥げ山にし高速道路外壁わきに記念碑を追い込んだ闇は、吉田親子の顕彰碑の前に立ってそこから日本と自分のあるべき方向を思念すべきではないか、と怒りが収まらない。

 

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白金長者が開拓した足跡 (1) 

2020-12-17 19:53:34 | 歴史・文化財

 オイラが40代のころだったと思うが、都会で「境界ウォーク」というのをやったことがあった。そのとき印象的だったのが、都内の品川・目黒区の境界にあった「長者丸」という地区だった。高級住宅街の高台の一角に石碑を発見。武蔵野の一角だった荒野を先導的に拓いた吉田弥一郎(大正13年没)を崇敬し讃えたものだった。

  今では家賃が85万円という高級マンションや瀟洒な邸宅が並び、銀を保有していたという白金長者の名残が周辺に続く。大名城跡の「自然教育園」、旧朝香宮邸の「庭園美術館」、美智子上皇后の出身地の池田山、港区の白金地区へと。しかし、吉田親子碑のことは全くというほど知られていない。もちろんガイドブックにも出ていない。ネットではマンションの宣伝ばかりが目立つ。

              

 今では高速道路に追いやられたようにその片隅に「吉田翁碑」がひっそりたたずんでいた。昭和3年に建立されたその顕彰碑は、弥一郎の温容で高潔な人柄で地域の「自治の美風」を広めたとされる。広大な地主でもあった弥一郎は呉服商だった。その石碑の隣には、円筒型の銅製の碑があった。それは三男の幸三郎(1887-1980)の顕彰碑だった。

             

 そこには、幸三郎は、日本の演劇・美術・伝統音楽の保存・発展に大きな貢献をしたことが刻まれていた。早稲田大学に入学した幸三郎は、坪内逍遥のすすめで坪内邸に設立した「文藝協会演劇研究所」に入り、近代劇の生成発展のために尽力。同窓生に、黙阿弥の家を継ぐ河竹繁俊、日本初の新劇女優・松井須磨子がいた。(つづく)    

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戦闘機の燃料を松ヤニで作った!?

2020-09-15 22:37:08 | 歴史・文化財

 静岡県立森林公園のビジターセンターに行ったとき、玄関前のさりげない展示物に注目した。松の木に斜めに傷があるものだった。はじめは漆の木なのかと思ったくらいだ。太平洋戦争末期、海上封鎖されて石油の確保ができなくなった対応策として、松ヤニ(松脂)から燃料をとる方針を全国に発信した。つまり、「松根油等緊急増産対策措置要綱」を最高戦争指導会議(1944.10)で決定し、翌年3月に閣議決定する。(石油の自給は10%、それまではアメリカから75%輸入していた)

        

 その決定を受けて、行政・森林組合・青年団・学童など全国民レベルで神社・松並木・森にある松から油を竹の筒に採り、一斗缶に集めたという。戦闘機が1時間飛行するには200本の松が必要だと言われたらしい(1本の松から採れる松脂は一日で20gしかならない)。

   

 自然豊かな県立森林公園にも戦争遺跡があったことに驚愕する。目立たない展示物だが戦争責任の風化が著しい現在とても貴重なメッセージだと思う。しかし、これを見る人は全く見当たらなかった。負の遺産はできたら見たくないのは大いにわかる。ただし、そのツケは日本の国債のようにいびつに蓄積していく。真実に生きようとしない歪みは日本の社会にじわじわと沈殿する。その目に見えないストレスは日々のニュースに表現されてしまう。

 だから、そこを踏まえた政治というものが要請される。しかし、そのようになっていない現実の政治に期待度がやっぱり欠落してしまう。菅総理誕生や新大臣誕生があってもそういう哲学がやはり感じられない。石破氏がちょっぴりそこにアプローチしていたがやっぱり外されたね。野党は一般論はいいがリアリティというものが育まれていない。

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浜松から二俣への難所にある鳥羽山洞門

2020-05-21 21:46:02 | 歴史・文化財

 武田軍と徳川軍の攻防があった「二俣」地区をちょっぴり歩くことになった。二俣城がその軍事的拠点とすれば、その隣に城主の住居と庭園がある鳥羽山城がある。その高台の今は公園になっているが、浜松から二俣に行く時の難所がここで、むかしは船を利用したという。その難所に、洞門つまりトンネルを掘って開通したのが明治32年(1899年)。

        

 さらにその隣に、昭和17年に隧道を開通し、国道とする。鳥羽山隧道は車両専用道路、鳥羽山洞門は自転車・歩行者専用道路(昭和54年6月)となる。洞門には非常ベルと赤色非常灯がトンネル内の事故や事件を示すようになっている。

    洞門内は蛍光灯がともっており壁もクリーム色にしてあり明るかった。もともとはレンガ造りのようだ。想像以上に距離がある。高さは2.3mというがもっと高いように見える。出口の光をめざす。このトンネルのおかげで浜松との交通とがスムーズになる。太平洋戦争中は、通行止めとなり戦車壕に転用された。

 ときどき車で利用してきた狭い隧道には、人と自転車との通行禁止の交通標識が見える。太平洋側と山間部を結ぶ交通の要衝という機能はいまだ変わりはない。

   

 戦時中は、天竜川をさかのぼって進軍する米軍に対してゲリラ戦で対応する想定だった。そのため近くに、陸軍中野学校二俣分校もあった。最後の日本兵・小野田寛郎もここで幹部として養成された。今ではそうした歴史は風化され、景気浮揚と経済成長を窺う国民総商人化となってしまった。コロナはそんな風潮を吹き飛ばし、人間のあるべき姿の原点を揺り戻した。車谷長吉が問うてきた生きるよすがを取り戻せるのだろうか。

 

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飾り瓦が見どころ

2019-03-23 23:07:03 | 歴史・文化財
 鄙びた「大平(オイダイラ)」の「武速神社」ではあるが、屋根が見どころだ。重量感のある瓦と飾り瓦を使っているのを考えると昔は林業収入が高かったからなのかもしれない。「経の巻」型の「経」(キョウ)は楕円形で空に向かって反っている。その下に、「綾」が二本、中央の鏡(蓮の花)には、織田家の家紋「五瓜に唐花(ゴカニカラハナ)」が神紋となっている。

 
              
 左右の端には「逆さ獅子」が魔除けの任務として就ている。口をよーく見ると阿吽となっているし、尻尾がちょん切れているのも比較して初めてわかる。いつ頃の時代のものかはわからないが、躍動感あふれる名工の作品だ。


     
 さらには、「牡丹」の花の瓦も保存がいい。「牡丹」は、幸福と富貴を表す「花の王」なのだ。それが獅子とコラボしているから最高の組み合わせというところ。屋根の自遊空間を散策・想像する名工たちとムラびとたちとの精神的交流・心意気が、現代の格差拡大の新自由主義を撃つ。


           
 本殿の屋根には縁取りが強化されている「覆輪」型のようで波模様のある凝った「台付き」となっている。この「台」は瓦の留め具と雨の侵入を防ぐ役割がある。画像を確保できなかったが、稜線となる屋根の中央を支える「のし瓦」(雨の侵入も防御)の量感も圧巻だ(牡丹の瓦の後ろにちょこっと見える)。
 これだけの文化財をひと気のない過疎のムラはいかに維持管理していくか、辛いところに違いない。   
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武速神社が4社もあるって?

2019-03-22 21:56:03 | 歴史・文化財
 天竜にある国道の側道に「大平(オイダイラ)」という地区がある。浜北区にも同名の「大平」があるので気になっていた。たまたま時間があったのでその側道を闖入してみる。すると、すぐに「武速(タケハヤ)神社」があった。「武速神社」と言えば坂上田村麻呂の将軍杉で有名な「下百古里(シモスガリ)」にもある。さっそく「大平」の石造の鳥居をくぐってみると、鳥居には「昭和29年9月吉日」と「氏子安全」の字が刻印されていた。


    
 いかにも田舎らしいこじんまりした拝殿があった。屋根はしっかりした瓦葺。この「横川」地区には同名の「武速神社」が4社(「上百古里/下百古里/光明/大平」)もあるという。
なぜこんなにもあるのか謎だが、戦前の軍国主義・国家神道の需要に押されてあやかったものなのだろうか。

         
 「大平」の神社は、「下百古里」のパターンと似ていて、正面に背の高い杉と拝殿、裏に本殿が鎮座している。境内はきれいに清掃されていて地元から大切にされているのが伝わってくる。有名な「下百古里」の神社は来訪者が多いせいかやや荒れた感じがする。   
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大黒天の屋根にお多福娘!?

2019-02-09 19:52:31 | 歴史・文化財
 二俣町の街並みには文化財が豊富なのに見落とされている箇所が意外に多い。その一つがこの大黒天の小さな神殿だ。大黒天は七福神の神だがアマテラスに国を譲った神。つまり、反ヤマト勢力でもあったため歴史の「負け組」として歪められてきた歩みがあると個人的には注目している神でもある。扁額は昭和12年に奉納している。
 
              
 
 それはさておき、その屋根がなんともおどろおどろしい。本来なら福を呼ぶ「お多福」の顔を鬼瓦にしているが、なんとも奇妙に見える。しかも、掃除が行き届いていないからよけい荒廃している雰囲気がある。

   
 神殿の両脇には、向かって左に「恵比寿」さん、右に大黒天がいる。漁業の神である恵比寿さんは鯛を掴んでいる。五穀豊穣の大黒天は打ち出の小づちと宝物を入れた福袋を担いでいる。両者が並ぶことで、商売繁盛と福徳とを願っているようだ。その効果は地域に反映しているのだろうか。まつりだけが華やかなな面影を残しているがふだんのまちはヒッソリとしている。
  
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穏やかに「塩地蔵と滝不動尊」

2019-02-08 20:42:12 | 歴史・文化財
 浜松の要衝・二俣町の「塩地蔵」は、家康の息子・信康切腹の寺「清瀧寺」の場末にある。昔は庶民に身近な満願成就の地蔵だったに違いない。患部に塩を擦り込むと治癒するということで塩がいっぱい置かれていた。

               
 その隣に、「是より瀧の不動道」と刻まれた石碑が立っている。いま チョロチョロ流れている瀧は、昔はもっと勇壮な水量だったに違いない。隣の階段を登ってすぐに、「滝不動尊」のこじんまりしたお堂がある。


 
 どんな不動尊なのか知りたいところだった。その隣にはお神輿ほどの小さな大黒天の神殿があった。そこは意外に魅力的だったが、詳しくは雪が降りそうな明日ね。
 
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