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前田利家の代では「百万石」達せず

2022年04月22日 | 歴史上の人物
🌸前田利長(家康に服従し「加賀百万石」を築いた)

 ☆父・利家の方針を180度転換
 *お松の方を人質に差し出す
 ☆思い切った土下座外交で日本一の石高を得た

前田利家の代では「百万石」達せず
 ☆江戸時代随一の石高を誇った「加賀百万石」
 *利家の時代は前田家の所領は百万石に届いていない
 ☆前田利長は、父である利家の路線を大きく改変した
 *家康との関係を築き直して「加賀百万石」の礎を築いた
 *父の利家は能登と加賀半分の大名であった
 (前田一族としてはおよそ80万石)
 ☆利長は独立した大名であり、独立した家臣団を編成していた
 ☆前田利家の政治的な重みはたいへんなものだった
 *利家は懸命に徳川家康の専横を抑え込んでいた
 *利家が生きている内、豊臣政権は何とか一つにまとまっていた
 *利家が病没するや、石田三成と加藤清正らの衝突が起きる
 *家康はその抗争に乗じ、三成を失脚させた
 ☆家康は、天下分け目の大戦が政権奪取に必要だった
 *敵として家康に選ばれたのが、前田利長だった
 *家康は前田に謀反の動きありと、加賀征伐を呼びかけた
 ☆利長が選択したのは思い切った土下座外交
 *父の利家は家康と張り合い、成果を挙げていた

徳川への従属派VS豊臣応援派
 ☆利長の土下座外交
 *重臣を家康のもとに派遣して前田家の潔白を説明させた
 *母のお松の方を人質として江戸の家康に差し出す
 *養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠の次女)
 *結婚させることを約束し徳川家と友好関係を築いた
 *関ヶ原の戦いでは、前田家は加賀国内の西軍勢力を討伐した
 ☆前田家は、戦後の論功行賞で加賀を全て与えられた
 *加賀・越中・能登を領する「加賀百万石」が誕生した
 ☆金沢城内での横山長知が大田長知を暗殺した大事件
 *横山の背後には利長が構築した家臣団がいた
 (前者は徳川幕府への従属やむなし派)
 *太田には尾張以来の利家家臣団の後援があった
 (心情的には大坂の豊臣を応援したい派)
 *利長は豊臣派の動きを抑えるために、横山に太田を斬らせた
 ☆家臣団が割れた原因は、利長の後継にあった
 *利長には子ができなかった
 *利家が側室に産ませた利常を養子として跡継ぎにした
 (利家の正妻お松の方が産んだもう一人の男子、利政がいた)
 ☆利長は、徳川家の大切な姫を利常の妻とすると明言した
 *利政ではなく利常が後継者の流れになった

徳川秀忠の次女が金沢に輿入れ
 ☆お松の方は、能登を失って浪人した実子の利政
 *もう一度世に出ることを熱望していた
 ☆尾張以来の重臣たち、お松の方と深い絆がある
 *お松の方は、反対勢力のシンボルだった
 ☆徳川秀忠の次女・珠姫はわずか3歳で金沢に輿入れした
 *利長は利常に早々に家督を譲り、富山に移った
 *徳川の婿となった利常を重んじる姿勢を内外に示した
 *この後、利長は大坂の陣が始まる直前に世を去った
                       (敬称略)                                     
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⛳出典『THEMIS4月』




前田利家の代では「百万石」達せず
(ネットより画像引用)

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