慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

明治時代1(上野・北越戦争)

2022年06月24日 | 歴史
🌸上野戦争

 ☆無血開城に納得しない彰義隊が上野に籠もる

明治時代の上野戦争
 ☆新政府軍は江戸総攻撃を計画していた
 *勝海舟と西郷隆盛の間で行われた会談で、江戸無血開城が決定した
 *江戸の町が火の海になることは避けられた
 ☆旧幕臣らは不満を抱き、江戸市中の警護を行っていた彰義隊
 *上野の寛永寺に立て籠もり徹底抗戦することを決めた
 *彰義隊、鎮圧すべく新政府軍は大村益次郎が指揮を執った
 ☆新政府軍は最新式のアームストロング砲を使い彰義隊を圧倒
 *1日で彰義隊の制圧に成功した

慶喜を守るために彰義隊を結成
 ☆鳥羽・伏見での敗戦のあと恭順の姿勢を示す慶喜
 *寛永寺で謹慎生活を送っていた
 ☆恭順に不満を持つ旧幕臣らの強硬派
 *慶喜を守ると称して彰義隊を結成
 *慶喜が水戸に移ったあとも、寛永寺に留まり続けた
 *各地の脱藩兵なども彰義隊に加わり3千人位となった

逃げ道を与えて3方から攻撃
 ☆新政府軍は寛永寺に立て籠もる彰義隊を包囲して攻撃を加えた
 *主力は上野広小路から黒門を攻める薩摩軍ら
 *寛永寺北の上野台地からは長州・大村藩ら
 *本郷台地から佐賀・尾張藩が援護砲撃
 ☆上野から脱出する部隊の備えとして別働隊を配置する
 *包囲殲滅作戦

勝軍の将・大村益次郎
 ☆長州が生んだ天才軍略家
 ☆緒方洪庵の適塾に入塾し、蘭学・医学を修めた
 ☆軍学者として功績を残した
 *幕府の講武所教授を務めたのち
 *長州藩に招聘され、兵制改革に携わる
 ☆第2次長州戦争では、幕府軍に勝利した
 ☆上野戦争では彰義隊を1日で鎮圧.した
 ☆近代軍制の準備を進めたが、反対派に襲われ死亡した

🌸北越戦争

 ☆新兵器を導入し新政府軍に抵抗した小藩の意地

明治時代の北越戦争
 ☆旧幕府軍追討で、北陸道を進軍する新政府軍
 *長岡藩に新政府軍への協力を要請
 *長岡藩の家老河井は中立を主張し
 *新政府軍は請け合わなかった
 ☆長岡藩は、東北諸藩と手を組み、新政府軍に抗戦する
 *長岡藩は、ガトリング砲など最新の武器を備えていた
 *長岡藩は、フランス式の軍制を取り入れて軍備を強化していた
 ☆長岡藩家老河井が被弾し指揮官不在になった隙に
 *新政府軍は、総攻撃を仕掛け勝利した

長岡城奪還作戦
 ☆小千谷会談の決裂から北越戦争に突入
 *緒戦を優位に進めた奥羽列藩同盟
 *長岡城が落とされるとその後は長岡周辺での戦いが続く
 ☆長岡城を奪還するが、指揮官の河井が被弾して戦線を離脱
 *再び新政府軍に城を落とされ、同盟軍は敗北する

近代的な軍制改革を進めた河井継之助
 ☆赤字だった藩財政を回復させた河井継之助
 *大砲30門を購入し小銃も導入、フランス式の軍制に改めた
 ☆日本に3門しかなかったガトリング砲を2門購入している

敗軍の将・河井継之助
 ☆中立国家を目指した北越の天才
 ☆家老として、藩政・財政の立て直しを図った
 ☆大政奉還後は、中立の立場をとることを決めていた
 ☆最新の武器を仕入れ、軍備を強化していた
 ☆北越戦争ではみずからガトリング砲の射手となる
 *戦線に立つも被弾した傷が原因で命を落とした
                        (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』








明治時代1(上野・北越戦争)
『日本の合戦』記事より画像引用)

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