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松平忠輝(徳川家康の六男)

2020年07月18日 | 歴史
松平忠輝(徳川家康の六男、大名)

 ☆豊臣家を滅ぼした徳川家康が、世を去るのはわずか一年後
 ☆一年の間に家康は、大名や朝廷、宗教勢力を統制する基本法を定めた
 *お家騒動を防ぐ将軍位継承のルールも決めた
 *徳川幕府を永続させる制度をすべて作り上げていた
 ☆それが、戦国の世を終わらせ太平の世を築く家康の終活だった
 ☆家康を最後まで悩ませる問題
 *将軍秀忠を軽んじ、伊達政宗と結びついた六男・忠輝の存在
 ☆松平忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好む
 *茶道、絵画、薬学に通じた文化人

松平忠輝誕生
 ☆徳川家康の六男(庶子)として江戸城で誕生した
 ☆生母の身分が低かった
 *家康は誕生した忠輝を喜ばず捨て子とする
 *家康の側近・本多正信に拾わせ、大名皆川広照に預けられた
松平忠輝成長
 ☆家康の七男早世し、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続
 ☆下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る
 ☆大久保長安の仲介で、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した
 ☆高田藩30万石を加封された
 *川中島14万石と併合して合計45万石
松平忠輝築城
 ☆当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城とした
 ☆忠輝は、高田城を築城し高田城に移った
 ☆高田城は幕命で、加賀藩を牽制する新城建設
松平忠輝の改易・配流
 ☆父・家康との距離は縮められずじまい
 *大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられる
 *大坂夏の陣で大坂に出陣
 (遅参により軍功を挙げることはできなかった)
 ☆家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼ぶ
 *忠輝だけは呼ばなかった
 *家康は最後まで面会を許さなかった
 ☆忠輝は兄・秀忠から改易を命じられた
 *伊勢国朝熊に流罪とされ、金剛證寺に入った
 ☆その後、信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替え
 *諏訪の配流屋敷で長年を過ごした
 ☆享年92歳の長命
野風の笛の逸話
 ☆家康との仲は、悪くはなかったとする説もある
 ☆野風の笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物
 ☆天下人の象徴である笛を、家康は忠輝に渡した
松平忠輝が父に嫌われた理由
 ☆忠輝は、父親から生涯を通じて嫌われた
 *理由は、母親の身分が低かった
 ☆家康は、忠輝の容貌を嫌ったという記録が多い
 *家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていた
松平忠輝改易の理由
 ☆家康没後兄の秀忠は忠輝に改易を命じた
 ☆大坂夏の陣、大坂に攻め入る総大将を命じられていたが遅参した
 ☆道明寺の戦いにも遅参
 ☆キリスト教ときわめて親しい関係にあった
 ☆妻の五郎八姫はキリシタンだった
                (敬称略)
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詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKBS『英雄たちの選択』『WIKIPEDIA』






松平忠輝(徳川家康の六男)
(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)



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