著者:ピエール・バイヤール(筑摩書房 1995円) 評者:若島 正
やられたなぁ、というのが、この書評を見たときの第一印象である。
だって、読んでいない本について堂々と語るなんて、正にこのブログの
真骨頂だもんなぁ。
(既に何回か言及したが、読みたい本のタイトルの保管用(備忘録)として、
書評の書評シリーズを書くために、そもそもこのブログは生まれた)
著者は、パリ第八大学教授という肩書きを持つ。
その著者が、どのような思いで標題のような書を著したのか…。
書評を読む限り、この本のテーマは『本の呪縛からの解放』である。
僕達は、普段本を読むときに、ついその中に籠められた作者の主張を
受け止めようとしてしまう。
それは、本の中に著者が籠めた思いをきちんと受け止めようとする
意思の表れでは有るがしかし、そうした考えこそが因習に囚われた
ものなのだ、と、著者は喝破する。
読書というものが、作家と読者の真剣勝負のようなものだと、
誰が一体決めたのか?
長い時間をかけてしたためた著作物を読むにあたり、敬意を表して
丁寧に読まねばという気持ちが読み手に働くからか。
だが、作家は(殆どの場合)誰に頼まれてその本を書いたのでもなく、
自分自身の内的、あるいは経済的欲求により、いわば書きたいから
書いているのであり、それに読み手が過剰反応する必要は無い、と
している。
このことを、作者は評者の引用によれば「『読書は神聖なものだ』
という社会的規範」をタブーと看做し、打破しようとする。
では、人にとって本は必要なものなのか?という疑問に行き着いて
しまうのであるが、作者が主張したいことはYESであり、また
NOでもある、と思われる。
すなわち。
本により読み手に何らかの刺激を与え、触媒として作用すること。
本にそれだけの力があれば、読み手の心にしっかりと楔を打ち込む
だろうし、ある書物はタイトルくらいしか印象に残らないかも
知れない。
また、ある本は読まれた刹那から忘れ去られるような内容なのかも
知れない。
ただ、そうした活字が、読み手の心の中にマリンスノーのように
静かに積み重なっていくことにより、いつか何かのきっかけで
読み手の思考を刺激する触媒になることが出来れば、それだけで
その本は存在した価値がある、ということ。
極端に言えば、忘れ去られるような書物であっても、ああ、この
本には意味が無い、と読み手が認識したそのことで、意味を持つ
という逆説めいたことも言えるのだろう。
いずれにせよ、人は他者について、それが会話であれ、書物であれ、
その発せられた意図を完全に理解するということは不可能である。
それは、言葉というコミュニケーション手段を介する以上、不可避な
事実である。
#作者は、それを称して『幻影としての書物』と表現している。
であれば、人はもっと本に対して肩肘を張らずに接するべきである。
本の役割は、読み手を先導し支配することではなく、読み手に何らかの
インスパイアを与えるためにあるものなのだから。
乱暴に言えば、こうした主張を作者は伝えたいのだろう。
この作者。
その挑戦的なタイトルの裏面には、相当な活字中毒者の顔が隠されて
いると見た(笑)。
(この稿、了)
やられたなぁ、というのが、この書評を見たときの第一印象である。
だって、読んでいない本について堂々と語るなんて、正にこのブログの
真骨頂だもんなぁ。
(既に何回か言及したが、読みたい本のタイトルの保管用(備忘録)として、
書評の書評シリーズを書くために、そもそもこのブログは生まれた)
著者は、パリ第八大学教授という肩書きを持つ。
その著者が、どのような思いで標題のような書を著したのか…。
書評を読む限り、この本のテーマは『本の呪縛からの解放』である。
僕達は、普段本を読むときに、ついその中に籠められた作者の主張を
受け止めようとしてしまう。
それは、本の中に著者が籠めた思いをきちんと受け止めようとする
意思の表れでは有るがしかし、そうした考えこそが因習に囚われた
ものなのだ、と、著者は喝破する。
読書というものが、作家と読者の真剣勝負のようなものだと、
誰が一体決めたのか?
長い時間をかけてしたためた著作物を読むにあたり、敬意を表して
丁寧に読まねばという気持ちが読み手に働くからか。
だが、作家は(殆どの場合)誰に頼まれてその本を書いたのでもなく、
自分自身の内的、あるいは経済的欲求により、いわば書きたいから
書いているのであり、それに読み手が過剰反応する必要は無い、と
している。
このことを、作者は評者の引用によれば「『読書は神聖なものだ』
という社会的規範」をタブーと看做し、打破しようとする。
では、人にとって本は必要なものなのか?という疑問に行き着いて
しまうのであるが、作者が主張したいことはYESであり、また
NOでもある、と思われる。
すなわち。
本により読み手に何らかの刺激を与え、触媒として作用すること。
本にそれだけの力があれば、読み手の心にしっかりと楔を打ち込む
だろうし、ある書物はタイトルくらいしか印象に残らないかも
知れない。
また、ある本は読まれた刹那から忘れ去られるような内容なのかも
知れない。
ただ、そうした活字が、読み手の心の中にマリンスノーのように
静かに積み重なっていくことにより、いつか何かのきっかけで
読み手の思考を刺激する触媒になることが出来れば、それだけで
その本は存在した価値がある、ということ。
極端に言えば、忘れ去られるような書物であっても、ああ、この
本には意味が無い、と読み手が認識したそのことで、意味を持つ
という逆説めいたことも言えるのだろう。
いずれにせよ、人は他者について、それが会話であれ、書物であれ、
その発せられた意図を完全に理解するということは不可能である。
それは、言葉というコミュニケーション手段を介する以上、不可避な
事実である。
#作者は、それを称して『幻影としての書物』と表現している。
であれば、人はもっと本に対して肩肘を張らずに接するべきである。
本の役割は、読み手を先導し支配することではなく、読み手に何らかの
インスパイアを与えるためにあるものなのだから。
乱暴に言えば、こうした主張を作者は伝えたいのだろう。
この作者。
その挑戦的なタイトルの裏面には、相当な活字中毒者の顔が隠されて
いると見た(笑)。
(この稿、了)
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