壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

暮の春

2010年04月26日 21時24分32秒 | Weblog
        落汐に鳴門やつれて暮の春     重 頼

 この句は、引き潮のために海面が低くなって、海中のごつごつした岩などが、あらわになった景観を描いたものだ。一見、叙景的な句を意図しているようだが、しかし作者のねらいは、人間の形容に用いる「やつれる」という語を自然現象に用いて、鳴門がやつれるという擬人的な表現をとったところにあろう。
 自然の景観である鳴門が、憔悴(しょうすい)している、そこにおかしさがある。貞門の言葉の技巧が次第に洗練されていって、おかしさを意図しながらも、叙景的な表現に達しようとしている一例といってよかろう。

 「暮の春」は、春の夕暮れではなく、晩春のこと。
 「落汐(おちしお)」は、引き潮のこと。
 「やつれる」というのは、やせ細り、憔悴することで、もっぱら人間を形容するのに用いる。
 「鳴門」は、鳴門海峡のことで、昔から潮の流れの激しさで有名であり、今も‘鳴門の渦潮’として観光名所になっている。
 なお、「落汐になる」に「鳴門」を言い掛けたとする説もあるが、そこまで言う必要はないと思う。「落汐に」は、引き潮によって、あるいは引き潮のために、と解すれば十分である。

 季語は「暮の春」で春。

    「もう晩春なのだなあ。この鳴門も引き潮によって、まるで、やつれたように海面が低く
     なって、海中のごつごつした岩が、むき出しになって見えるよ」


      晩春の坐してつめたき木椅子かな     季 己