壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (73)続・未来記

2011年04月23日 20時48分48秒 | Weblog
 ――俳句には、詠んではいけない風体などというものはありません。何をどう詠んでもいいのです。ただ、縁語や掛詞を駆使した俳句は、見かけませんが……。

 だいぶ以前のことです。ある句会で、
        白道のつるうめもどきうめもどき
 という句が出て、主宰特選になりました。
 ところが、「これでも俳句ですか。どういう意味で、どういう点がよいのか、さっぱり分かりません」という意見が続出したのです。主宰は、ただニコニコしているだけで、何もおっしゃいませんでした。

 俳句は、意味を述べるものではありません。季節と自分との関わりを、詠(うた)いあげるものです。問題の句は、もともと意味などを述べていないのですから、分からなくて当然です。

 選句は絵画鑑賞であり、また音楽鑑賞でもある、と私は思っています。
 句を読んで、一枚のすてきな絵画が浮かび、快いリズムが感じられ、しみじみとした季節感が味わえれば、それは◎です。もちろん、その季語の本質をとらえた句も◎です。
 さて、「白道のつるうめもどきうめもどき」の「白道」は、《びゃくどう》と読み、ふつう辞書には「二河白道」と載っています。

     [二河白道]水の河と火の河との間にある、幅四、五寸ほどの細長く白い道。
     どんなに水火におびやかされても、堅く決意してこの白い道を進めば、極楽の
     彼岸に到着するという。(『新潮国語辞典』)

 「白道」はなじみのない言葉ですが、字面から「白く清らかな道」程度のことは見当がつきます。その白く清らかに見える道に、つるうめもどきの濃い橙紅色の実や、うめもどきの紅熟した実が、葉を落とした枝々に点々と残って、日に輝いている、というのです。
 一句の中には「の」という助詞のほかは、名詞だけです。動詞は一つもありません。しかし、この句は、動詞や形容詞がないために、かえって、いろいろなことを読む者に想像させるのです。だから、これでも俳句と言えるのです。
 「白道の」の後に小休止があり、そこには、作者のさまざまな思いがこめられています。
 また、「つるうめもどき」と「うめもどき」の間には、限りない数のそれらの実が見えてきます。空間の広さと、動かぬ時間が感じられます。
 「白道」は、『清らかにあくまで澄んで、よこしまのない句を詠みたい』という、作者自身の願いでもあり、目指す俳句の道でもあるのでしょう。
 おそらく、作者の胸中には、芭蕉晩年の句、
        此の道や行く人なしに秋の暮
 が、去来していたことでしょう。


      うぐひすのほがらほがらと美術館     季 己