壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

生悟り

2010年11月06日 22時43分23秒 | Weblog
          ある智識ののたまはく、「生禅大疵の
          基(なまぜんおおきずのもとい)」と
          かや、いとありがたく覚えて、
        稲妻に悟らぬ人の貴さよ     芭 蕉

 生悟りの人は、自分の半端な悟りに結びつけ、その考えにしばられて、かえって事象の真相を見失うことが多い。
 悟らぬ人は、事象を事象として飾らずに見るので、その本質を感得することができる。その無心が貴いというのである。
 曲水宛の書簡には、
          此の辺やぶれかかり候へども、一筋の道に出づる事かたく、
          古き句に言葉のみ荒れて、酒くらひ豆腐くらひなどとののしる
          輩のみに候……
 と、湖南の連衆の低迷ぶりを嘆く文字に続いて出ているので、大津や膳所(ぜぜ)あたりの俳人たちが、純粋にこの一筋に立ち向かうことのない、生半可な態度を嘆いた気持ちをこめているものかと思われる。

 「智識」は、正しく教え導いてくれる指導者。善知識。ここでは高徳の僧。
 「生禅」は、生半可な禅。禅を中途半端に学んで、悟り顔をすること。

 「稲妻」が季語で秋。稲妻に触れて詠んだものではなく、観念的な作為が主になって使われている。

    「生禅の人は、稲妻を見てもそれをすぐに無常迅速に結びつけて、
     とかく悟り顔をするものだ。なまじい、そんな悟り顔をする人よりも、
     悟らない人の方が、かえって貴く思われることだ」


      スサノオの大蛇退治や草もみぢ     季 己