ある智識ののたまはく、「生禅大疵の
基(なまぜんおおきずのもとい)」と
かや、いとありがたく覚えて、
稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭 蕉
生悟りの人は、自分の半端な悟りに結びつけ、その考えにしばられて、かえって事象の真相を見失うことが多い。
悟らぬ人は、事象を事象として飾らずに見るので、その本質を感得することができる。その無心が貴いというのである。
曲水宛の書簡には、
此の辺やぶれかかり候へども、一筋の道に出づる事かたく、
古き句に言葉のみ荒れて、酒くらひ豆腐くらひなどとののしる
輩のみに候……
と、湖南の連衆の低迷ぶりを嘆く文字に続いて出ているので、大津や膳所(ぜぜ)あたりの俳人たちが、純粋にこの一筋に立ち向かうことのない、生半可な態度を嘆いた気持ちをこめているものかと思われる。
「智識」は、正しく教え導いてくれる指導者。善知識。ここでは高徳の僧。
「生禅」は、生半可な禅。禅を中途半端に学んで、悟り顔をすること。
「稲妻」が季語で秋。稲妻に触れて詠んだものではなく、観念的な作為が主になって使われている。
「生禅の人は、稲妻を見てもそれをすぐに無常迅速に結びつけて、
とかく悟り顔をするものだ。なまじい、そんな悟り顔をする人よりも、
悟らない人の方が、かえって貴く思われることだ」
スサノオの大蛇退治や草もみぢ 季 己
基(なまぜんおおきずのもとい)」と
かや、いとありがたく覚えて、
稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭 蕉
生悟りの人は、自分の半端な悟りに結びつけ、その考えにしばられて、かえって事象の真相を見失うことが多い。
悟らぬ人は、事象を事象として飾らずに見るので、その本質を感得することができる。その無心が貴いというのである。
曲水宛の書簡には、
此の辺やぶれかかり候へども、一筋の道に出づる事かたく、
古き句に言葉のみ荒れて、酒くらひ豆腐くらひなどとののしる
輩のみに候……
と、湖南の連衆の低迷ぶりを嘆く文字に続いて出ているので、大津や膳所(ぜぜ)あたりの俳人たちが、純粋にこの一筋に立ち向かうことのない、生半可な態度を嘆いた気持ちをこめているものかと思われる。
「智識」は、正しく教え導いてくれる指導者。善知識。ここでは高徳の僧。
「生禅」は、生半可な禅。禅を中途半端に学んで、悟り顔をすること。
「稲妻」が季語で秋。稲妻に触れて詠んだものではなく、観念的な作為が主になって使われている。
「生禅の人は、稲妻を見てもそれをすぐに無常迅速に結びつけて、
とかく悟り顔をするものだ。なまじい、そんな悟り顔をする人よりも、
悟らない人の方が、かえって貴く思われることだ」
スサノオの大蛇退治や草もみぢ 季 己