人声や此の道帰る秋の暮 芭 蕉
『笈日記』に、この句と「此の道や行く人なしに秋の暮」という句とを並べて、「此の二句の間いづれをか」と問うた由が見える。このことから、二者択一のかたちで「此の道や」の句に決定したものと考えられてきた。しかし、必ずしもそうではないと思う。この句は、「此の道や」の句とはまた別の、もう一面の芭蕉の‘うたごころ’にかたちを与えたものとして見てゆくほうが穏当であろう。「此の道を行く人なしに秋の暮」という句の推敲ではすまされないこころのおもむくところ、それとは別の性格の発想を試みたのではなかろうか。
この句の根底を流れるものが何であるかも、説の分かれるところである。しかし、以上のような観点から、単なる人懐かしさではなく、孤独感に根ざした人懐かしさのこころといったものを、読み取りたいと思う。
人声の暗示するような、人と人との触れあうところに生まれてくる世界へ溶け込んでゆこうとする心の傾きこそ、この句の発想を支えるものであると思う。
俳席にこの句を立句(たてく)の候補として提出したとき、芭蕉は、この心の傾きがそのまま挨拶のこころとして働くことを期待していたのであろう。
「人声や」は切字を持つが、ここで完全に切れるのではなく、中七に対しては主語として働く語法であろう。このすぐ後にも、「松風や軒をめぐつて秋暮れぬ」とあり、その他「荻の穂や頭(かしら)をつかむ羅生門」・「秋風や桐に動いて蔦の霜」など、その例は少なくない。
ただし、「帰る」の主語は「人声や」ではなく、「自分が」が省略されたものとする説もあり、また、自分が〈行く〉のに対し、人声が〈帰る〉というような解し方もある。
季語は「秋の暮」。此の道を帰る人声との間に、それをつつみこむように働きながら、滲透しあって、孤独の寂寥と、人声のなつかしさへの傾きとの醸し出す微妙な情感を生み出している。
「秋の暮のものしずかな気配の中に、人の交わし合う声が、しずかに透りつつ、
この道を帰って来る。それが何か人懐かしい思いを感じさせることだ」
返さねばならぬ絵そばに秋の暮 季 己
『笈日記』に、この句と「此の道や行く人なしに秋の暮」という句とを並べて、「此の二句の間いづれをか」と問うた由が見える。このことから、二者択一のかたちで「此の道や」の句に決定したものと考えられてきた。しかし、必ずしもそうではないと思う。この句は、「此の道や」の句とはまた別の、もう一面の芭蕉の‘うたごころ’にかたちを与えたものとして見てゆくほうが穏当であろう。「此の道を行く人なしに秋の暮」という句の推敲ではすまされないこころのおもむくところ、それとは別の性格の発想を試みたのではなかろうか。
この句の根底を流れるものが何であるかも、説の分かれるところである。しかし、以上のような観点から、単なる人懐かしさではなく、孤独感に根ざした人懐かしさのこころといったものを、読み取りたいと思う。
人声の暗示するような、人と人との触れあうところに生まれてくる世界へ溶け込んでゆこうとする心の傾きこそ、この句の発想を支えるものであると思う。
俳席にこの句を立句(たてく)の候補として提出したとき、芭蕉は、この心の傾きがそのまま挨拶のこころとして働くことを期待していたのであろう。
「人声や」は切字を持つが、ここで完全に切れるのではなく、中七に対しては主語として働く語法であろう。このすぐ後にも、「松風や軒をめぐつて秋暮れぬ」とあり、その他「荻の穂や頭(かしら)をつかむ羅生門」・「秋風や桐に動いて蔦の霜」など、その例は少なくない。
ただし、「帰る」の主語は「人声や」ではなく、「自分が」が省略されたものとする説もあり、また、自分が〈行く〉のに対し、人声が〈帰る〉というような解し方もある。
季語は「秋の暮」。此の道を帰る人声との間に、それをつつみこむように働きながら、滲透しあって、孤独の寂寥と、人声のなつかしさへの傾きとの醸し出す微妙な情感を生み出している。
「秋の暮のものしずかな気配の中に、人の交わし合う声が、しずかに透りつつ、
この道を帰って来る。それが何か人懐かしい思いを感じさせることだ」
返さねばならぬ絵そばに秋の暮 季 己