壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

友切丸

2011年09月04日 00時44分36秒 | Weblog
        鞘走る友切丸やほとゝぎす     蕪 村

 「友切丸」は、源氏重代の宝剣で、はじめ「獅子の子」と称せられていた。この太刀よりも長い「小烏」の名刀に添えて置いたところ、自ら鞘走って「小烏」の、わが寸法よりも勝っただけの部分を斬り落としてしまった。それより「友切丸」と呼ばれるようになった。

 『平家物語』剣巻に誌してある伝説では、「友切丸」も「小烏」も最初から抜いて障子(今日の襖)に寄せかけてあったことになっているが、そういう穿鑿はどうでもよい。
 この句は、ほととぎすの写実ではなく、ほととぎすの特性、つまり、鋭いその声の気勢を極度に強調して、一種の理知的詩画を描こうとしたものである。
 「鞘走る友切丸」が、鋭い「ほととぎす」の叫び声の形容として働いていることは事実である。しかしそうかといって、前者が後者の完全な属性なのでは決してない。映画のモンタージュ手法のように、常識的にはほとんど無関係のような二個の事物を突然に衝撃させて、双方各自の存在に度を超えた活力と意義とを与えあうように計ったのである。
 この句の感じを言い表せば――友切丸が突如自ら鞘走る。その一刹那、ほととぎすという鳥が、この世の闇の中に生を得て叫び声をほとばしらせるのである。
 
 季語は「ほとゝぎす」で夏。

    「名刀友切丸は、闇中一閃、他の名刀の先端を斬って落とそうと鞘走る。
     ほととぎすもまたこれに似て、闇中一声、つんざくごとくに鳴き渡る」


 ――久々に新涼のような気持ちのよい個展を観てきた。銀座和光の本館6階和光ホールで3日から開かれている『東田茂正 陶展』のことである。
 3年ぶりに和光で個展をすることになった今回は、DM、図録、会場構成、ショーウインドウのデザインなどすべて、東田先生の意向で組み立てられたとのこと。
 会場内を何度も廻らせていただいたが、東田先生らしく「見て戴く」ことに主眼を置かれているように感じた。「買って欲しい」という媚びがまったく見られないのが、非常に素晴らしい。
 事前に図録を戴いたので、日に何度も開いて楽しんだ。〈身辺整理〉を最優先でしなければならない我が身、ああ、それなのに事前に和光に電話をして、一点押さえてもらったのだ。
 実物はどれも図録より格段に佳い。もちろん購入することにした。東田先生は、「もうたくさんお持ち戴いているので、ご覧いただくだけで結構です」とおっしゃられたが、実はこういう事情もあるので、ということで納得いただいた。
 この展覧会が終わると、しばらく暇になるから、かねてからの「志野茶碗」作りに来て下さい、と何度もおっしゃって下さった。また、電信柱を立てることができる。有難い。感謝の気持ちでいっぱいである。


      新涼の香器 白兎のぬくもりも     季 己