大和盆地をドライブしていると、国道24号線沿いに唐古鍵遺跡に出くわした。
1、ここでは弥生時代後期の、初の環濠遺跡で多くの生活遺跡の破片等が出ているらしい。
特に、写真のような楼蘭の絵を陶器に線描きした破片が多いようで、そこから、唐古鍵遺跡の中に、モニュメントとして建てたという。これ以上、唐古鍵遺跡を説明するものは今のところ、なさそう。
奈良にはその後、中世にも環濠集落を作って戦国大名に対抗しているから、そういう体質があるのかも。
2、唐古とはこの地域の名称、鍵とも隣り合わせた地区の名称で、特段の意味がない。
3、唐古・鍵遺跡の1.5km左前方に、巻向遺跡があり、この遺跡こそAD180年ごろから225年ごろまでの王権の位置と想定される前方後円墳の最初の集積地で、その南端に卑弥呼の墓とも言われる最大の「箸墓古墳」がある。
巻向遺跡は古墳時代を期する遺跡群で、弥生時代の唐古・鍵遺跡の10倍もの大きさというが、両者の年代的場所的関係から、大いに継続性があろう。この間の時代区分時代変化、連続性は想像するのが楽しみ。
4、卑弥呼の時代ののち、日本の歴史・文献資料ではAD417年の倭国の晋への朝貢まで、147年間不在となり、前方後円墳のこの時代の実態がよくわからないようだ。AD400年ごろは前方後円墳の最盛期で仁徳天皇陵をはじめ全国で前方後円墳が多くたてられる。
5、ここから前方後円墳体制といわれる考えがあり、それでは、王権を見せる必要から、支配領域・軍事権・外交権・イデオロギーを共通利害とする各地首長層の共同体とするもの。要するに卑弥呼の?箸墓古墳を嚆矢とする見せかけの建造物で支配を維持確保しようとした時代なのかも。
同時に河内王権・葛城王権説などもあり、奈良盆地から竹内街道を通って堺に至る大和川流域の歴史遺産は大変なものだ。
6、この後AD500年代の明日香地域を中心とする歴史時代まで、大いに想像しよう。
今回は、楠正成の赤坂千早城が目的だったが、昔の風情が残っていたな。板葺きの宮跡、藤原京跡等々
歴史の宝庫だな。
「歴史を旅する」研究会の石井喜久雄氏は、古代史がメインだから、また聞かせてよ。
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