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先日、妻より連絡が入り、同居している義母が「突然歩けなくなり、股関節が痛むと言っている。」と電話が入った。結局、その日は病院には行かずに一晩様子を見る事にしたが、翌日も相変わらず痛むと言うので、妻と娘である妻の妹の二人で、豊岡病院の整形外科を初診で診察を受けた。
歩けないので、病院の駐車場から借りた車いすで院内に入った。レントゲンの結果、骨には異常が見つからずに一か月後に再検査をすることで帰宅したが、義母は少し検査結果に納得がいかずに翌日に違う脳神経専門の診療所を受診した。この診療所は何時も給食弁当を配達している医院で馴染みもある。CT検査の結果は、頭の毛細血管が数か所詰まっているとの事で、隣町の総合病院の八鹿病院脳神経科を紹介され、昨日は指定された病院を受診して、MRIの検査を受けた所、先日の診療所の診断通りに脳梗塞の症状が見られ、進行する可能性が有るとして、来週にもう一度状況を見たいとの事であった。
脳梗塞は、症状の現れ方は人それぞれだが、身体の一部もしくは全体が、自分の意思通りに動かない状況になると言う。
義母は現在は86歳だが、毎日城崎温泉の外湯に歩いて出かけ、友人と一緒にお湯につかる事を一番の楽しみにしていたのだが、それも出来なくなってしまった。気の毒ではあるが、何とか寝たきりにならない様に願っているが、こればかりは何とも言えない。幸い我が家は、よくある嫁姑の関係ではなく、実の娘が面倒を見てくれると言うのが救いではあるが、、、二人姉妹なのだが、妹も車で30分位の所に嫁いでいるので、何時でも応援してくれるのも心強い。
私が言うのも心苦しいが、義母の人生は結構苦難の連続で、余り幸せな人生とは言えない気がする。隣町から城崎温泉の土産物店に嫁いだのだが、当時は義理の両親や小姑との同居で肩身の狭い思いの生活であったと聞く。二人の娘には恵まれたが、20代で大病を患い難聴に侵されて身体障害者にも認定されている。その後40代で50代の夫が肝臓ガンで他界し、義父との二人暮らしが始まった。義父は93歳と長生きをしたために、その生活は夫婦で過ごした時間よりも長く、20数年にも及んだ。
その後は一人暮らしが始まったのだが、年々歳も取ってきたので10数年前より、私は義母を引き取る事を決断し、現在に至っているので、伊藤姓と山田姓が存在する。妻も義母も私を気遣ってくれる様子は手に取るように分かり感謝している。義母も歳は取ったとはいえ、お互い少なからずの遠慮が存在する。
私が大病をしてからは、帰りが遅い時でも必ず私の顔を見るまで待っていて、顔を見てから自分の部屋で過ごす。ありがたい事であるが、今後は気にせずに休んでほしいと思っている。昨年の秋の元気なころにポツリと言った一言は「私は今が一番幸せだ」私にとっては何とも言えない満足感と使命感を持った一言であった。「同居した甲斐が有った」と喜んだものだ。
つい先日まで、外湯を楽しみ、元々読み書きが好きな事も有って、新聞や本もよく読んでいた。今回の病院に行く前には、自分の身体の経過を手紙に書き、診察を受ける先生にも手渡している。自分でも難聴で会話が難しい事は理解しているので、手紙にしたためたと思うが、その位の頭の回転は健在である。
また、テレビも好きで、自室ではボリュームを最高に上げてイヤホンで聞く。最近は字幕もよく出るので、結構楽しみに観ているようである。
延命治療や墓の話もするが、本人も妻も健康で長生きはありがたいが、寝たきりの生活は望んでいないので、誰しも願う事ではあるが、やはり穏やかな最後が迎えられる事を望んでいる。
義母は4人兄弟の一番年長で長女であるが、実家は弟が継いだが、数年前にガンで他界し、上の妹は姫路に嫁ぎ、歳の離れた一番下の妹は、車で20分位の所に嫁いでいるので、昨日の八鹿病院にも付き添ってくれている。数年前に姫路の妹さんの家に連れて行った事があるが、元気なうちにもう一度連れて行ってやりたいと思っている。
7人の孫と7人のひ孫にも恵まれ、晩年は穏やかな生活を送っている。特に今年は孫である妹の長男の結婚式にも出席し、新たに2人のひ孫の顔も見て、変化の少ない生活の中でも満足な一年で有ったと思う。
今後も年齢からして完治する事は難しいかも知れないが、穏やかな生活が続くことを願うばかりである。
今では、私の方が元気であるが、頑張れ「ばあさん」
では又ね
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