好奇心全開!!遊行期を遊ぶ

 遊行期も今から上り坂、やっと命の不思議に目覚めたような感じです。
 玄牝の門を敲きます。

<生きる力>か<学力向上>か!?

2005-01-15 18:48:07 | 時事問題
 日本の学力低下を明らかにした国際調査の結果が出て、文科省は土曜授業を公認し、ゆとり教育を返上して詰め込み教育の再興を企て始めている。

 <休日の土曜日に補習をする公立高校の教員に対し、代休を認めたり、保護者からの謝礼金受け取りを許可したりして実質的に「土曜授業」を公認している自治体が20府県にのぼることが、朝日新聞の調べでわかった。国は「ゆとり教育」の一環で02年度から完全学校週5日制を導入したが、大学入試対策として土曜に補習を続ける高校が後を絶たず、自治体が制度の解釈で下支えしている格好だ。文部科学省は近く、土曜補習の実態を調査する。(朝日新聞050112)>
 喜んでいるのは誰か? 有名大学受験を狙う保護者達だ。それは全保護者の何割に当たるのか・・・。ごくごく少数の願望を満たすために過剰受験競争教育が現場を支配してきた。「一流受験校」の現実はすさまじかった。それを追いつけ、追い越せの「二流受験校」の現場はもっとすさまじい。それらの高校の教員の権威主義・権力主義はもはや教育に値しない暴力であったといえるのではないか。その暴力的権力主義装置に適合しない教員は心身症になっていった。適合して立身出世ひた走りの野心家教員達しかそんな受験校には勤務できないのに、そのあまりのひどさにそんな教員さえ脱落するのだ。生き残った教員の姿を想像してほしい。

 <文科相は、学力低下の原因として、学習指導要領の内容を3割削減するなどした「ゆとり教育」が指摘されていることに言及。「基礎・基本を教えて、応用のきく『生きる力』を育てることが本来の目的」とその意義を認めながらも、「ゆるみ、たるみのようにとらえられた」と、これまでの教育政策の反省を述べた。さらに、「教科内容を少し減らしても、授業時間は減らしてはいけなかったのかもしれない。その反省から時間を確保したい。(学校現場が)土曜日も授業をしたいというのは、素晴らしいし、ありがたい」と述べ、授業時間増を検討する中で土曜日の活用を視野に入れるなどの、「脱・ゆとり」というべき考えを示した。(朝日新聞0401218)>

 そんな状況を総括して、「ゆとり教育」「生きる力」の教育創造が形成され始めた。21世紀の必然的潮流であるはずだった。それが再び逆流し始めたのだ。「愛国心教育」「教育基本法改悪」の潮流に呑み込まれているのだ。2004年で国連人権教育の10年は終了した。その終了と同時に文科省の「脱・ゆとり」「競争・差別教育」「愛国教育」への突入となっていくのだろうか・・・。ゆとり教育、主体教育、創造教育・・・国連人権教育の10年が提起してきたさまざまな新しい教育方法論を実践、拡大することもなく、むしろその新しい潮流を恐怖して、その成果を封殺していこうと画策しているとさえ思わせるものがある。人民の側からの声が挙がらないことをいいことに、世論操作が始まっているのだろう。教育を権力の支配の道具にするのか、人民の生存権を保障する根本的に重要な社会権として教育を人民の人権の武器にするのか、二つの価値軸の闘争が始まっている。60年の闘争が今の日本を方向づけたけれど、平和主義を維持するか軍国日本を復活するかの闘争が終盤に近づいているといえるだろう。「三池闘争」「安保闘争」につぐ「生存権闘争」と呼んでいいものではないか。

時空遊泳の旅人達

2005-01-15 14:25:58 | パラダイムレボリューション
 明後日ばかり見てきた仁が少し過去を見直し始めようとしています。
 天外伺朗さんの『運命の法則』なんておもしろそうな本に出逢ってしまったのが運の尽き。金文堂の杉内さんが来たとき、「あっ、ちょっと待って、・・・頼みたい本があったんだ。名前を忘れた。最新刊。4,5日前の新聞に広告が載っていた・・・」本の名前さえ覚えていないのに、「わかりました。調べてみます」と杉内さん。これまた忘れていた頃に杉内さんが「ありました」といって持ってきてくれたのだ。
 <本書の基本的なスタンスは、そのように一般常識で切り捨てられ、排除されたものの中から、ドキッとするような真実を拾い出し、皆の目にさらしていくところにある。・・・>と前書きにある。このスタンスにもうはまってしまった。ちょうどBLOGを知ってこれまたはまりかけたところだったので、『運命の法則を読む』のカテゴリーを設けて、読み込みとBLOG上での探索・考察を同時進行させる企てをした。仁の記憶の海は当たり前のこととして空っぽだ。BLOGの存在を教えてくれたくれはやししゅんさんの『イコールの橋』を読んでいるとなんとまぁ地球誕生46億年の記憶の海が湧出している。伺朗さんの第一テーマ「共時性」に関して読み込んでみると至る所に描かれているのだ。こりゃぁおもしろいと思ったものだ。『イコールの橋』のトラックバックを辿ったらタオのPOOHさんに出逢った。「共時性」と「タオ」を一瞬に結びつけてしまったのだ。偶然は存在しない。地下水脈が通底しているのだ。しゅんさんもPOOHさんも老子さんもその地下水脈から湧出した水なのだ。その水が人の形になる。しゅんさんになり、POOHさんになり、老子さんになったのだ。同根だから共鳴しないはずがない。共鳴・共振。POOHさんは共鳴でシンクロして『イコールの橋』にワープしたのだろう。地球的な地下水脈だけではなく、宇宙的なワームホールでつながっているのだろう。老子さんとも繋がっているのだから時空を越えているのだ。伺朗さんが言っている『あの世』と『この世』がたたみ込まれた時空の遊泳者あるいは旅人達と名付けたいほどだ。
 ・・・と話しが流れて、また明後日を見てしまった。書こうとしたのは何だったっけ???過去の見直しだ!けれど、仁は19歳で時間がストップしている。そのあとは虚構の時間が流れて、虚構は事実を破壊して、今じゃ現実と虚構の判別はつかなくなっている。判別不能というわけじゃないが、判別無意味の世界がおもしろいと悟ったのだ。といってしまえば、共鳴世界から脱落してしまうことになるので、泡沫のひとときの出会い、存在の領域で、なけなしの過去をたどり直してみようと思ったのであった。・・・話しの初めに戻って、そうしないと『運命の法則を読む』のプログラムが進行しない。仁はまだ5ページしか読んでいない。しゅんさんやPOOHさんの生に「共時性」は見えても廃仁にはまだ見えていない。見えないまま先に行くのもしゃくだが、見えそうもないので、先に行くことにしよう。後戻り自由奔放、ケセラセラなのだ。