好奇心全開!!遊行期を遊ぶ

 遊行期も今から上り坂、やっと命の不思議に目覚めたような感じです。
 玄牝の門を敲きます。

「戦争」って私に遠い存在ではない!   by 飛架里

2005-02-27 13:58:54 | 時事問題
 最後の一番大きいテーマで、最後の論文・意見を述べます。
 私は今まだ「平和宣言」を一口では語れません。それは戦争を他人事、関係のない話だ、私だけは被害にあわないと、勝手に思っていたことが事実だったからです。
 けれど、今、世界で戦争は終わっていないし、つい最近までイラク戦争・・・アメリカ・・・北朝鮮・・・考えてみると「戦争」って私に遠い存在ではない!ということを身にしみてきました。前、TVで広島の女子高生の一言「私たちは、観光客が原爆ドームの前で写真を撮っている意味がわかりません」。私は ハ! と思いました。ただ何も考えずに、記念だ、記念だ、といいながらシャッターを押していた自分がいたのです。
 そう、私たちは知っているようで知ってない。無意識、無関心なままで戦争のことを考えていたのです。
 「けれど、このままではいけない!」という心が動いています。騒いでいます。いずれ戦争を目の当たりにする日は近いだろう・・・こんな考えが思いつくくらいまで日本・世界はスレスレの位置に立っている。この状況を、どうする???って、戦争を止めに行くことはできないけれど、まず私たち若者たちがこの危険を一緒に考えなければならない!そんな時代が来ているのだから・・・。
 そのためには、自分で情報を探し、知り、それを友達・家族に伝えていかなければなりません! 口で言うのはカンタン・・・それを、DO IT ! しなければ。まずは、人を知り、人とつながることから・・・。自分の小ささを知り、それでも「できることは?」と問いつめていく。私たちの将来は不安がいっぱい。けれど、立ち向かって、「笑顔」が自然に出る将来にしていかなければ・・・。
 強力が大事な世の中に☆☆

 『新星子コンミューンのこころ』 へどうぞ!

祥造さんのTAO 02 イメージしてごらん、大きな三角州を

2005-02-27 13:02:19 | 時事問題
大きな国は低い姿勢でいるべきなんだ。
川はやがて三角州となるが、
あのデルタのような在り方であるべきなんだ。
その国は低いところにいて、
いくつもの川を受け入れる。
女性は静かに下にいて
上の男性をゆったり受け入れ
それでいて、相手を自分のものにする。
それと同じさ、
このように静かで謙遜した在り方が
世界政治の根本であるべきなんだ。
大国がこういう姿勢でいれば
小さな国は安心して共存してゆける。
大きな低い三角州には
数々の川が流れ込む、そして一緒に
母なる海に合するーーー
こういう大自然の動きに沿う時
世界の政治は治まるのさ、
そこにはじめて
世界政治の未来像が見えてくる。
そうじゃないか
ほかにどんな未来像があるというんだね?


 ちょっと大きな真似をして、政治のことを考えていると、祥造さんのTAOの言葉に出会います。ああそうなんだぁ、と思ってしまいます。ここから見えてくる「未来像」を大事にしていこう。この「未来像」を語り、伝えていこう。そう思います。愚仁の小さなコンミューンを活かしてくれる国は、愚仁の弱い弱いコンミューンをサポートしてくれる国は、そんな日本なんです。そんなUSAなんです。覇権主義の、威張り散らしの日本は NO です。戦争屋USAは NO です。

 『新星子コンミューンのこころ』 へどうぞ!

「永遠の舞い」ってなに?

2005-02-24 13:26:07 | パラダイムレボリューション
 <座っているときは、まるでそこにいないかのように平らかなのに、話しはじめると、まるで虹がかかったようにダイナミックになる人。瞑想しているときは年老いた賢者のように厳かなのに、踊っているときには無垢な赤ん坊のようにきらきらと笑う人>・・・そして、<チャーミングでセクシーでダイナミックで、幼子のように純粋で賢者のように荘厳な人。水晶のように透明で、光を反射すると虹色に輝く人>を木乃実さんの紹介してもらいました。木乃実さんが瞬時に好きになった人です。そんな人っているんですね。そんな人に出会えるのもやはり特権的な享受力を持ち合わせていないとだめなのでしょうね。木乃実さんがそんな人の出現を求めていたからその人が出現したと言ってもいいのかもしれません。<道のりは 短くても長くても/想うことで 可能性が広がる/何を望む/何を願う>と93MRさんが詠い、このフレーズを木乃実さんが好きになる。そして、木乃実さんは 「私もあんな50代になりたい!!」 と願う。命が連なり合って舞うのを感じます。一つひとつの命が自分自身でありながら、自分自身であることが命の連なりとして一つのハーモニー、一つの舞いを創りだしていく。共鳴・共振が舞いのモードなのかもしれません。そんなこと想っているとジーンさんエリオットの「永遠の舞い」を紹介してくれました。
 <回転する世界の中心に不動の点・・・肉もなく、肉ならぬものもない、来ることなく、向かうこともない
その中心に舞いあがる しかし、それは停止でもなく運動でもない、だから固定とは呼べない 過去と未来とが一つに集まるところ
そこから来ることも、そこに向かうこともない
上昇もなく、下降もない ただ点、不動なる点・・・
そこに舞いはなく、そこにただ一つの舞いがある。

   (T・S・エリオット『四つの四重奏曲』「焼け果てしノートン」)

 エリオットの隠喩につづけていいますと、私たちは永遠なる舞いの一部分なのです。その舞いにとっては、私たちの上に、あるいは内に起こるようなものは何もありません。そしてその舞いそのものは永遠に、正確に、繰り返されています。その底には、私たちを含めた宇宙のすべてのものを一つにつなぐ原理が隠れています。

 『タオ こころの道しるべ』ジーン・シノダ・ボーレン著より (p29)>

 木乃実さんが<私もまた、新しい夢を想い描き始めました。大きな、大きな夢。それを実現するために宇宙を信頼すること>とコメントしているのを見ました。どんな「大きな夢」なんだろう、・・・もう好奇心全開です。ワクワクランドにましぐら。

TAOな人に会いに行く01

2005-02-14 20:44:08 | パラダイムレボリューション
 <何気なく開いた本のページに、探していた言葉を見つけて、はっとすることがある。
ほしいと思っていたものが、翌日に手に入って驚くことがある。行きたいと思っていた場所を思い浮かべた数日後に、そこに誘われて驚くこともある。宇宙はいつでも私を驚かし、私を喜ばせ、私を見るべきものへ、行くべき場所へ、会うべき人へと導いてくれる。
 さて、今日、私が出会ったのは、ひさしぶりに開いたネイティブ・アメリカンの教えの本。読んで、心がすっきり晴れた。この本には、混乱したエネルギーをひとつにまとめる力がある>と木乃実さんのいう「ネイティブ・アメリカンの教え」はアナログで大きい。こんな本を読んだり作ったりする人がつながっている人はきっと。TAOな人だろう。そう思って木乃実さんがつながっている人を渡り歩いてみることにした。うんんん、やっぱりすごい。おもしろい。
 <あたしの趣味のひとつに雑巾の狂い縫いというのがある。いらなくなった服を切って、ただあてもなく縫いつづけるのである。これをはじめたら、 なかなか止めることが出来ない。ついつい徹夜までしてしまう。アホらしくなってくるんだけど 、この雑巾の狂い縫いには不思議な魔力があって止めることが出来ない。出来ないというよりは許されないという感じにとても近い>という「雑巾の狂い縫い」の東京典子さんを尋ねた。この無駄ごとは確かにもうTAOな人だ。誰も真似ができないよ。だがとことんとことん、朝までだって狂い縫いをつづけるのだ。<あたしとミシンと、いらなくなった服の再生化にはきっと計ることの出来ない秘密がかくされている。そう!この雑巾の狂い縫いは世界平和に繋がっているかも知れない。どこかの誰かを知らず知らず助けているのかも知れない。ヒトの進化に役立っているかも知れない。誰にもわからない何かも戦いに必要なことかも知れない。本当のことなんて誰もわからない>・・・そうなんだ、と感じてしまう。
 典子さんの版画はトーンがステキでお気に入りになった。こんなステキな版画を創っている人が真夜中に平和を願って雑巾の狂い縫いを一心不乱に実行している。もうTAOな人の典型ですね。典子さんの版画のブルーにも魔力が潜んでいる。

求めよ、求めよ、求めよ

2005-02-12 09:41:59 | パラダイムレボリューション
 「共時性」を旅していました。生徒の声に応えたくて、仁一人の力では応えられなくて、生徒の声に応えられる人の心のエネルギーをもらいに行きました。たくさんの人たちの心に出逢い、たくさんの人たちの心のエネルギーをもらうことができました。今、この世界の、あちらこちらで、見ず知らずの人たちと、求めれば、心を交わすことができる、今、心が通じ合っている、あるいは呼び合っている、そう信じることができるのを実感しています。求めよ、しからば与えられん。求めることが基本なんだとわかりつつあります。求める力が蘇れば、人は一人じゃない、つながって生きていけるんだ。人は一人じゃない、サポートし合っているんだ。人は一人じゃない、求めることが人の心に愛のエネルギーを想起させることなんだ、という体感を持ち始めました。この体感はとても居心地がよくて、HAPPYです。このHAPPYがほしくなれば、求めればいい、・・・そんな単純な愛の法則を発見できそうな気がしています。
 木乃実さんの心のエネルギーをもらって、もっとほしがったら、ネイティブアメリカンの世愛の世界に導かれていきました。ロックを見ただけでなにやら大きなエネルギーに包囲されてしまいます。このエネルギーさえもらえるかもしれないと感じてしまいます。
 <何気なく開いた本のページに、探していた言葉を見つけて、はっとすることがある。ほしいと思っていたものが、翌日に手に入って驚くことがある。行きたいと思っていた場所を思い浮かべた数日後に、そこに誘われて驚くこともある。宇宙はいつでも私を驚かし、私を喜ばせ、私を見るべきものへ、行くべき場所へ、会うべき人へと導いてくれる。さて、今日、私が出会ったのは、ひさしぶりに開いたネイティブ・アメリカンの教えの本。読んで、心がすっきり晴れた。この本には、混乱したエネルギーをひとつにまとめる力がある。・・・>
 「共時性」の入り口に立っているのを感じます。いつでも出入り自由な入り口が世界にも人の心にもあるんだということを感じます。仁の身辺りにもそんな入り口があったんでしょうね・・・。仁の海馬がおかしいんですけれど、もう一度たどり直せば、出会い直しができるかもしれません。タオのプーさんのすすめで注文していた『海馬 脳は疲れない』と『タオ』が届きましたので、入り口がまた増えました。読みこなしきれないのが現実ですが・・・。牛歩で読んでいきます。
 木乃実さんの『タオ(老子)』の世界ももっと遊ばせてほしいと思っています。
 無知はHAPPYですね。一つ知ると一つ新しい世界が開ける。一つの心に触れるとまた新しい世界が開けていく。その世界も仁はまた忘れてしまって、無知に逆戻りしてしまうんですけれど、・・・世界は常に新鮮です。

いつもすばらしい笑顔だったんだ     by 紘樹

2005-02-10 11:08:39 | コラム記事
 この作文を見て衝撃を受けました。こんな紙切れがこんなに迫力があり、こんなに気持ちがこもっているものとは思いませんでした。
 これを読んでいるとき何度も鳥肌が立ちました。それだけの迫力があったからです。2回も読んでしまいました。こんなに心を動かされたのは初めてでした。 
 病気と一生懸命たたかていた瞳さんは本当に素晴らしい人だと思います。テレビでこんなことがあっていました。「生きている間で、笑っている時間はみんな同じだけある」と・・・。だから瞳さんは13歳という命だったけど、いつもすばらしい笑顔だったんだ、と思います。

私は小さい頃手術受けたことがある     by 耶亜真

2005-02-10 09:18:49 | コラム記事
 猿渡瞳さんのコラムを読んで、この人はスゴイって思った。読んでて、そうだなって思った。読んでて涙が目からこぼれそうになった。『生きていける』ことがあたりまえすぎて、そのありがたさに気づかない。余命~年えいわれたら、やっぱ、人生観とか性格とか変わりそう。
 私は小さい頃手術受けたことがある。心臓病の。0歳の頃のことだから覚えていないけど、生きててよかったって思った。本当に思う。今も病院行ってて、面倒くさいって思う。でも、だから、『生きたくても生きられなかった』『生きようと病気と闘っている』そんな言葉が心にくる。誰もがいつ死ぬかわからない。でも病気とかじゃなくて、事故とかだから、自分の死を身近に感じれない。『生きたくても生きられなかった』『生きようと病気と闘っている』の人びとのためにも、自分らしくってよくわからないけれど、そんな風に生きていきたいって思う。余命~年っていわれても、“ひきこもり”とかじゃなくて、『生きたくても生きられなかった』『生きようと病気と闘っている』みたいに思えたらいいなって思う。『生きたくても生きられなかった』『生きようと病気と闘っている』っていわれている人もそうじゃない人も。
 『生きたくても生きられなかった』『生きようと病気と闘っている』みたいに思える人にもっといてほしい、生きてほしいって思った。どうして殺人を犯すような人が生きて、瞳さんのような人が生きれないのだろう。殺人犯の人たちとかに瞳さんのコラムを読んでほしいと思う。本当に“命”っていうものをわかっている人たちが増えてほしい。いい人とかは死んで、人の命とを奪う人(しかも反省していない人)が生きてるんだろうってよく思う。今の小学生はゲームのしすぎとかで、『人は死んでも生き返る』って思ってる。その事実を知って「バカだな」っても思うけど、それと同時に「こわい」っても思った。本当に学力低下だって思う。しかも一番大事なことがわかってない。何よりも“生命”が大切なのに・・・。命は一度失ったらもどらないなんて、別に習わなくてもわかるはずのことなはずなのに、って思う。お母さんは、「今はおばあちゃんとかと暮らさないからわかんないのかもね。お葬式とかに出たりしないんだろうね」っていっていた。あーあ、そうなんだろうなって思った。私もそうやって(葬式とか)知ったかもしれない。よくわからんけどね・・・。小さい頃お葬式に出たことがあるけど、、覚えてるのはこわい、変な感じ(ふんいき)って思った。その時はなんだったのかわからなかった。でもあとでわかった。もう少し大きくなってから。たぶんその時「死」というものがわかったと思う。言葉だけで言われてもきっとわからないと思う。だから、そういう体験してほしい(別に死んでほしいわけじゃなくて)おばあちゃんとか知り合いのお葬式には出てほしい。わかってほしい。本当に“命は大事なんだ”っていうのをわかってほしいから。
 誰にも命を奪う権利なんてない。奪わないでほしい。
 誰もが自由に生きれる世界にしたい、なってほしいて、よく思う。

“きちんと前を見て進もう”    湖那美

2005-02-08 16:48:55 | コラム記事
 僕は何度も死にたいって思うことがある。“つらい”ってだけでそう思ってしまう。
 でも僕は大好きな人に何度も救ってもらっている。その人とは先月はじめて会った。その人はいつも笑顔で僕を救ってくれる。その人の歌声は僕をいつも励ましてくれる。その人のおかげで“きちんと前を見て進もう”と思わされている。
 “死”なんて簡単に口にしちゃいけない。言葉は言霊が宿っている。口にしたことは本当になってしまうから。
 命があれば何でも体験する。つらいことも、楽しいことも。ーーーそれが生きてるっていう証。きちんと感情が生きてるっていう証。
 命大切にしよう。今つらいことがあったって、きっと未来、いいことがある。だから、自分の命を奪ったりするのは絶対やめよう・・・。 
 僕は絶対にしない。何があっても、命を大切にする。

「命さえあれば、必ず、前に進んでいけるはず」  by 未那絵

2005-02-08 11:03:10 | コラム記事
 このまだ中学2年の女の子の作文にとても考えさせられました。
 私たち健康な人たちにとって「幸せ」とはお金や地位や名誉を考えると思います。自分たちが、今、健康だから、病気になって命の危険が迫るなんて考えもしないからです。私たちが普段友達や家族や彼氏と元気にすごすことも命の危険がある人たちから見たらどんなに幸せなことか考えもしませんでした。なぜ、自らの命を絶つ人はたくさんいるのに、病気でも「負けずに生き続けたい」と思う人たちが重い病気にならなければならないか、とても悲しくなります。
 けど、瞳さんも自分が病気になったからこそ命は尊いものだと身をもって知ったんだと思います。
 「たとえどんなに困難な壁にぶっつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても、命さえあれば、必ず、前に進んでいけるはず」。この言葉が、私はとても心に残っています。本当にそうだと思います。インターネット自殺など、命を粗末にする人たちがたくさんいます。その人達は人生の困難な壁にぶっつかったりしたのかもしれませんが、困難であれば困難なほど、あとから来る幸せはより大きなものに感じられるはずです。
 だから、簡単に命を捨てるなんてことしないで、もう少しでもいいからがんばって、生きる幸せを見つけてほしいです

一念発起のただの仇討ち

2005-02-07 13:26:39 | 歴史雑話
 非業の英雄誕生には運命的ないくつもの出会いが要請される。ナポレオンならぬ日本人好み英雄待望論は古来人びとの夢の中に育まれてきただろう。美化と超人的能力、悲恋と悲劇が構成要素である。21歳までの義経伝説は人びとの願望の結晶として紡ぎ出されていく。ついに「判官贔屓」という類型化まで形成される。
 「昼間は終日、師の前で経を読み、書を学び、夜は仏の灯明が消えるまで読書するほど、学問に打ち込んだ。このまま20歳位まで専心するならば、鞍馬の仏法を継承し、仏教界の宝にもなるべき逸材だと期待されたが、如何なる天魔の仕業か、15歳の秋頃から、ぶっつり学問を放擲してしまった。 (『義経記』)」
 16歳の一念発起が武闘至上主義だったとすれば、英雄は誕生しない。けれど、
 「昼間は学問をしたが、夜は終夜武芸の稽古に励み、僧正ヶ谷で天狗に毎夜兵法を習った。されば、早足、飛び越しなど、人間業とは思えなかった (『平家物語』)」早足、飛び越しの超人牛若丸が空想される。「十二、三ばかりの幼き者、小太刀にて斬って廻り候は、さながら蝶鳥の如く(『橋弁慶』)」変幻自在の遮那王が拍手喝采を浴びるのだ。
 大河ドラマの京の五条大橋の場面はいかにも娯楽映画で桜吹雪の中を蝶鳥のように舞い上がり、天狗のように回転し、弁慶の薙刀にひらりと飛び乗るのだ。最後は弁慶の泣き所を払われて「あいたたた」と泣く弁慶まで仕上げてしまう。まるでマツケンサンバ風サービス過剰の大騒ぎ。大衆を愚弄する政治謀略の陰りさえ見え隠れする。竜馬はデモクラシーの伝道者であったが、義経は「自民党が倒れるか、小泉が倒れるか」と嘯く人民侮蔑の道化師みたいに見えてくる。
 時代的には、武家政権の樹立というダイナミックな潮流の中で、義経はその時代を切り開くというスタンスもビジョンも持ち合わせていなかった。平家打倒の時代的政治戦略が欠如していたのだ。

 とはいえ、一念発起の武闘鍛錬は過酷を極めたものであったろう。昨年の武蔵も小次郎も結構おもしろく、リアルに描かれていた。クリエイティブなスタンスが伝わってくるのだ。義経に武術を伝授したのが鞍馬山の天狗だという設定が義経らしさだというべきだろうが、義経の忍者的な武闘訓練だとしても、もっとクリエイティブな表現方法があったのではないか・・・。20歳以前の不明な経歴故に想像力によって義経英雄像が描き出され、増殖させられていく。白土三平の『忍者武芸長』風の人間錬金術の方がもっと納得できる気がする。観察と臨機応変の発想の転換術は信長にも武蔵にもナポレオンにも通底するマキャベリ的科学力だ。義経もナポレオンも女に弱かったが(つまりは権力主義者だったが)、信長も武蔵も女には無縁だった(つまりは単独者だった)。
 結果論から推論していくと義経の武闘訓練は絶望的な劇画サバイバルゲームしか連想できない。そんなはずはない・・・怠学仁は無知だから善玉義経を空想できないけれど、暇ができたので、諸説読みあさってみて、実体を探してみようかとも思ってみる。んまり触手は動かないけれど・・・。