日本の学力低下を明らかにした国際調査の結果が出て、文科省は土曜授業を公認し、ゆとり教育を返上して詰め込み教育の再興を企て始めている。
<休日の土曜日に補習をする公立高校の教員に対し、代休を認めたり、保護者からの謝礼金受け取りを許可したりして実質的に「土曜授業」を公認している自治体が20府県にのぼることが、朝日新聞の調べでわかった。国は「ゆとり教育」の一環で02年度から完全学校週5日制を導入したが、大学入試対策として土曜に補習を続ける高校が後を絶たず、自治体が制度の解釈で下支えしている格好だ。文部科学省は近く、土曜補習の実態を調査する。(朝日新聞050112)>
喜んでいるのは誰か? 有名大学受験を狙う保護者達だ。それは全保護者の何割に当たるのか・・・。ごくごく少数の願望を満たすために過剰受験競争教育が現場を支配してきた。「一流受験校」の現実はすさまじかった。それを追いつけ、追い越せの「二流受験校」の現場はもっとすさまじい。それらの高校の教員の権威主義・権力主義はもはや教育に値しない暴力であったといえるのではないか。その暴力的権力主義装置に適合しない教員は心身症になっていった。適合して立身出世ひた走りの野心家教員達しかそんな受験校には勤務できないのに、そのあまりのひどさにそんな教員さえ脱落するのだ。生き残った教員の姿を想像してほしい。
<文科相は、学力低下の原因として、学習指導要領の内容を3割削減するなどした「ゆとり教育」が指摘されていることに言及。「基礎・基本を教えて、応用のきく『生きる力』を育てることが本来の目的」とその意義を認めながらも、「ゆるみ、たるみのようにとらえられた」と、これまでの教育政策の反省を述べた。さらに、「教科内容を少し減らしても、授業時間は減らしてはいけなかったのかもしれない。その反省から時間を確保したい。(学校現場が)土曜日も授業をしたいというのは、素晴らしいし、ありがたい」と述べ、授業時間増を検討する中で土曜日の活用を視野に入れるなどの、「脱・ゆとり」というべき考えを示した。(朝日新聞0401218)>
そんな状況を総括して、「ゆとり教育」「生きる力」の教育創造が形成され始めた。21世紀の必然的潮流であるはずだった。それが再び逆流し始めたのだ。「愛国心教育」「教育基本法改悪」の潮流に呑み込まれているのだ。2004年で国連人権教育の10年は終了した。その終了と同時に文科省の「脱・ゆとり」「競争・差別教育」「愛国教育」への突入となっていくのだろうか・・・。ゆとり教育、主体教育、創造教育・・・国連人権教育の10年が提起してきたさまざまな新しい教育方法論を実践、拡大することもなく、むしろその新しい潮流を恐怖して、その成果を封殺していこうと画策しているとさえ思わせるものがある。人民の側からの声が挙がらないことをいいことに、世論操作が始まっているのだろう。教育を権力の支配の道具にするのか、人民の生存権を保障する根本的に重要な社会権として教育を人民の人権の武器にするのか、二つの価値軸の闘争が始まっている。60年の闘争が今の日本を方向づけたけれど、平和主義を維持するか軍国日本を復活するかの闘争が終盤に近づいているといえるだろう。「三池闘争」「安保闘争」につぐ「生存権闘争」と呼んでいいものではないか。
<休日の土曜日に補習をする公立高校の教員に対し、代休を認めたり、保護者からの謝礼金受け取りを許可したりして実質的に「土曜授業」を公認している自治体が20府県にのぼることが、朝日新聞の調べでわかった。国は「ゆとり教育」の一環で02年度から完全学校週5日制を導入したが、大学入試対策として土曜に補習を続ける高校が後を絶たず、自治体が制度の解釈で下支えしている格好だ。文部科学省は近く、土曜補習の実態を調査する。(朝日新聞050112)>
喜んでいるのは誰か? 有名大学受験を狙う保護者達だ。それは全保護者の何割に当たるのか・・・。ごくごく少数の願望を満たすために過剰受験競争教育が現場を支配してきた。「一流受験校」の現実はすさまじかった。それを追いつけ、追い越せの「二流受験校」の現場はもっとすさまじい。それらの高校の教員の権威主義・権力主義はもはや教育に値しない暴力であったといえるのではないか。その暴力的権力主義装置に適合しない教員は心身症になっていった。適合して立身出世ひた走りの野心家教員達しかそんな受験校には勤務できないのに、そのあまりのひどさにそんな教員さえ脱落するのだ。生き残った教員の姿を想像してほしい。
<文科相は、学力低下の原因として、学習指導要領の内容を3割削減するなどした「ゆとり教育」が指摘されていることに言及。「基礎・基本を教えて、応用のきく『生きる力』を育てることが本来の目的」とその意義を認めながらも、「ゆるみ、たるみのようにとらえられた」と、これまでの教育政策の反省を述べた。さらに、「教科内容を少し減らしても、授業時間は減らしてはいけなかったのかもしれない。その反省から時間を確保したい。(学校現場が)土曜日も授業をしたいというのは、素晴らしいし、ありがたい」と述べ、授業時間増を検討する中で土曜日の活用を視野に入れるなどの、「脱・ゆとり」というべき考えを示した。(朝日新聞0401218)>
そんな状況を総括して、「ゆとり教育」「生きる力」の教育創造が形成され始めた。21世紀の必然的潮流であるはずだった。それが再び逆流し始めたのだ。「愛国心教育」「教育基本法改悪」の潮流に呑み込まれているのだ。2004年で国連人権教育の10年は終了した。その終了と同時に文科省の「脱・ゆとり」「競争・差別教育」「愛国教育」への突入となっていくのだろうか・・・。ゆとり教育、主体教育、創造教育・・・国連人権教育の10年が提起してきたさまざまな新しい教育方法論を実践、拡大することもなく、むしろその新しい潮流を恐怖して、その成果を封殺していこうと画策しているとさえ思わせるものがある。人民の側からの声が挙がらないことをいいことに、世論操作が始まっているのだろう。教育を権力の支配の道具にするのか、人民の生存権を保障する根本的に重要な社会権として教育を人民の人権の武器にするのか、二つの価値軸の闘争が始まっている。60年の闘争が今の日本を方向づけたけれど、平和主義を維持するか軍国日本を復活するかの闘争が終盤に近づいているといえるだろう。「三池闘争」「安保闘争」につぐ「生存権闘争」と呼んでいいものではないか。