人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

パッラーディオのヴィッラ

2008-06-23 00:03:29 | 建築
■人文主義者のジャン・ジョルジョ・トリッシーノは、アンドレア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラという一人の石工に、古典の教育を授けようと決意しました。数学、音楽、ラテン文学、古典主義の思想などについての訓育の結果は、やがて建築史上ひときわ大きな意味をもたらすこととなります。
15世紀、ヴェネツィア共和国の統治下におかれたルネサンスの都、ヴェネト地方とトレンティーノ地方を結ぶ街道の要所、ヴィチェンツァの街において、その石工はパッラーディオ(パラディオ)という古典的響きのある名前を与えられます。

パッラーディオはトリッシーノとともにローマを訪れるなどしてドナト・ブラマンテやラファエロ・サンティの建築を学び、ウィトルウィウスの『建築十書』を研究しました。トリッシーノの助力を得て、やがて彼は次々と設計を依頼されるようになります。1546年にローマから帰国した彼は、ヴィツェンツァ中心部のパラッツォ・デラ・ラジョーネ(通称バジリカ)の改修案を市に提出し、ヤーコポ・サンソヴィーノやジュリオ・ロマーノの案を退けて当選します。この公共性が高い改修工事は規模も大きく、そのためパッラーディオの名声は北イタリア一帯に広まる結果となりました。

ヴェネツィアの美術家が生み出した作品は、ヨーロッパ中に大きな影響を及ぼしました。ティツィアーノやヴェロネーゼなどの諸作はコレクターの人気を博し、確立された神話画の描き方は、幾世代にもわたって引き継がれることになりました。そしてパッラーディオの意匠は古典建築を応用するうえの標準ともなり、多くのすぐれた表現者によって築かれたヴェネツィア文化のイメージは、今もなお人を魅きつけてやまないのです。

1786年からの『イタリア紀行』執筆によって、ドイツ古典主義の確立をみちびいた詩人ゲーテは、同書のなかでパラディオについてたびたび言及しています。たとえば次のように――「こうしたすぐれたものの観察のためには、幾年費やしても惜しくはない。これ以上に高尚なもの、これ以上に完全なものを私はついに見たことがなかったとすら思う。そして私のこの考えに間違いはないのだ。諸兄には一つ、生まれながらにして偉大なもの、快適なものに対する内的感覚を具備していた、この偉大な芸術家のことを心に浮べてもらいたい。彼は想像もつかないほどの辛苦を経てようやく古人の域に到達し、しかるのち古人の精神をば自己を通して再び表現したのである」

――パッラーディオは、職業建築家として史上最初の人物であり、他の芸術活動には携わりませんでした。彼の建築はしっかりとした考古学的知識に裏打ちされたものであり、決してペダンティックではなかったのです。ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方に残るパッラーディオ様式のヴィッラの数々は、1993年に世界遺産に登録されました。

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