人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

オルタの建築美学

2008-09-03 00:04:51 | 建築
■ベルギーのアール・ヌーヴォーは、何よりも建築においてめざましい成果をあげましたが、その機運の中心となったヴィクトル(ヴィクトール)・オルタは、ベルギー西部の古都ゲント(ヘント)の靴職人の家庭に生まれ、10歳を過ぎた頃からすでに建築に興味をもち、パリに出て建築事務所で働き、ブリュッセルで新古典主義の建築家アルフォンス・バラ(1819~95)のもとに学びました。その後独立し、1893年にポール・エミール・ジョンソン通りで竣工されたタッセル邸は、オルタの出世作といわれますが、着工時彼はまだ32歳という若さでした。

ベルギーは1830年、ネーデルランド王国の支配を脱して独立を宣言し、ようやく近代国家としての道を歩みはじめますが、1840年ごろにはヨーロッパ大陸で最初に産業革命を達成し、ヨーロッパ有数の工業国となりました。ベルギーのアール・ヌーヴォーは、その当初は政治的な社会状況と密接に連動していました。――社会主義運動が国際的に波及するなかで、85年に労働党が結成されるのを機に、労働運動は激しさを増します。67年に労働者のストライキ権が確立されていたものの、86年3月にブリュッセルのシャルルロワ地区で労働者による大規模な暴動が発生すると、官憲は武力鎮圧に乗り出しました。これを契機として、若い知識人やエリートたちの一部に、社会主義に共鳴する者が出てきます。
こうした状況のなかで、法律家のマックス・アレは友人のジュール・デストレとともに画策し労働党の新しい本部として《人民の館》の設計をヴィクトル・オルタに依頼します。これはベルギーにおける政治的な社会主義と芸術的な進歩主義とのあいだに、対応関係があることを示す象徴的な出来事であるといえます。
こうして《人民の館》の設計以降も、オルタの手がけた建築の発注者たちは、多くが政治的な進歩派リベラリストだったことが知られます。彼ら――アレ、デストレ、ヴァン・エートヴェルデ、ソルヴェー、タッセル、オーベックら――はオルタのパトロンでもあり、アール・ヌーヴォーのよき理解者でした。そして彼らは大半がブルジョワ出身の知識人で、大学教授、法律家、労働党のリーダー、ジャーナリスト、技術者、実業家といったエリートたちでしたが、思想的には労働者階級に共鳴する左翼的進歩主義者でもあったのです。
――これらオルタの支援者たちのなかには、フリーメーソンの会員がいました。彼らは1887年にオルタ自身も加盟したロッジ〈博愛の友〉の同志でした。ブリュッセル自由大学の教師オートリックやタッセルなどのロッジの同志の働きかけもあって、オルタは同大学の助手になり、その後には助教授になるなどして、社会的地位を獲得しています。苛性ソーダの発明で富を築いたソルヴェー一族が発注者となるのも、そうした経緯によります。


〈オルタの建築美学〉_1

〈オルタの建築美学〉_2

〈オルタの建築美学〉_3

〈オルタの建築美学〉_4

〈オルタの建築美学〉_5


にほんブログ村 美術ブログ 建築鑑賞・評論へ
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画 《トリコロールに燃えて》 | トップ | アルテミジア・ジェンティレスキ »
最新の画像もっと見る

建築」カテゴリの最新記事