平安前期の公卿で漢詩人、歌人でもあった小野篁には、地獄の冥官として、この世と冥界とを往還したという伝説がある。日中は朝廷に出仕していたものの、夜になると六道珍皇寺の裏にある井戸から地獄へと赴き、閻魔大王に冥官として仕え、裁判を補佐していたというのである。――
〈地獄の冥官 篁〉_1
〈地獄の冥官 篁〉_2
〈地獄の冥官 篁〉_3
〈地獄の冥官 篁〉_4
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一九七一年に刊行された『寺山修司全歌集』に、未刊歌集「テーブルの上の荒野」を収録して以降、寺山短歌が公式に発表されることはなかった。
しかし一九七三年、雑誌「海」の編集長の何気ない言葉に誘発されて、百首ほどの短歌をつくることが計画されたという。七月にはそれら歌群に「月蝕書簡」というタイトルもつけられた。だが作歌は順調ではなかった。
《一九七三年から十年かけて作られた短歌は、いろいろな紙片に . . . 本文を読む
昭和十年青森県生まれの寺山修司は、青森高校時代に俳句雑誌『牧羊神』を創刊、全国学生俳句会議を組織した翌年の昭和二十九年(1954)に早大に入学し、十一月に『チエホフ祭』の五十首で『短歌研究』第二回新人賞を受賞した。
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる
チエホフ祭のビラのはられし林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐる . . . 本文を読む
《信貴山縁起絵巻》は十世紀初めに信貴山寺を再興した僧命蓮に関する三つの奇蹟談を描いたもので、奈良県生駒郡平群町信貴山寺につたわります。
第一巻には詞書がなく、これにつづくべき第二巻、第三巻の詞書とほぼ同一内容の物語が、『宇治拾遺物語』の巻八や『信濃国聖事』にあり、これらの説話集により、《信貴山縁起絵巻》第一巻の物語を知ることができます。
『信貴山縁起』_1
『信貴山縁起』_2
『信貴山縁 . . . 本文を読む
■長明の『方丈記』と兼好の『徒然草』について、対比的にまとめて整理しました。
『徒然草』の深さには、つらつら感服しました。
〈『方丈記』と『徒然草』〉_1
〈『方丈記』と『徒然草』〉_2
〈『方丈記』と『徒然草』〉_3
〈『方丈記』と『徒然草』〉_4
〈『方丈記』と『徒然草』〉_5
■『方丈記』と鴨長明
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■長明の生涯と『方丈記』について、まとめてみました。
〈『方丈記』と鴨長明〉_1
〈『方丈記』と鴨長明〉_2
〈『方丈記』と鴨長明〉_3
〈『方丈記』と鴨長明〉_4
■『方丈記』と『徒然草』
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■大正十一年七月九日、死の寸前に森鴎外は「馬鹿馬鹿しい」と呟いたといいます。なんのことを指して呟いたのか、正確なことは不明であるにしても、この言葉に私はきわめて深いものを感じます。鴎外は死の三日前に、友人の賀古鶴所に遺書を口授して書きとらせ、拇印をしています。その一節に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」とあり、ここにも何か象徴的なものが見え隠れしています。
〈森鴎外の遺言状〉_1
〈森 . . . 本文を読む
■明治二十二年五月九日夜から、一週間にわたり喀血し、肺結核と診断された正岡子規は、医師に余命十年といわれ、次のような句を詠みました。
――卯の花の散るまで鳴くか子規
血を吐くまで鳴くといわれる鳥、子規に自分を重ねたのです。
この年、子規は同窓生の夏目金之助と出会っています。二人の交流は、漱石がイギリス留学中の一九〇二年、子規が脊髄カリエスで没するまでつづくこととなります。
〈正岡子規〉_1 . . . 本文を読む
■鶴屋南北が河原崎座での《天竺徳兵衛韓噺》によって一躍名をあげたのは、文化元年(一八〇四)七月、五十歳のときのことでした。
歌舞伎脚本、世話物五幕の《東海道四谷怪談》は、怪談狂言の代表作というばかりでなく、江戸後期の下層社会の世相と人間の心理を鮮やかに描いた傑作で、お岩さんの髪の毛が抜けて変貌する〈髪梳き〉の描写、彼女が浪人を仏壇の中に引きずり込む〈仏壇返し〉、「堀」の怪異な〈戸板返し〉が鮮 . . . 本文を読む
■『平家物語』について、基本的なことがらをまとめてみました。
「盛者必衰の理」をその叙述の基調として貫く「無常の思い」にみちた「あわれの文学」は、稀有の深い哀感をにじませています。
因果応報の仏教思想に同調する、名高い〈祇園精舎〉の序章は、人生無常の実相を象徴的に叙述していますが、これはおそらく現代においても通用する普遍性を有しています。
〈『平家物語』について_1〉
〈『平家物語』について_ . . . 本文を読む
■現代では、もはや小林秀雄の考え方は、ふつうにものを考える形態としては、しぜんに受容できるものではなくなっているのでしょうか。そうであるならば、兼好はなおさら、とっつきにくいことになるのでしょう。しかしこういうところには、面白味がいっぱいつまっているように感じられるのですが。
〈小林秀雄の『徒然草』_1〉
〈小林秀雄の『徒然草』_2〉
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西脇順三郎が日本語による第一詩集『Ambarvalia』を刊行したのは、1933年9月のことである。
1933年9月といえば、日本のシュルレアリスム絵画のさきがけとなった古賀春江が、39歳で病没している。さらにその翌年には、象徴詩に新しい可能性をひらいた大手拓次が、46歳で亡くなっている。
――詩集『Ambarvalia』は日本近代詩に革新的な衝撃を与え、エポックを画することとなった。西脇順三郎は . . . 本文を読む
■中島敦が『山月記』を発表したころと前後して、新興俳句の開拓者、富澤赤黄男は〈日に吼ゆる鮮烈の口あけて虎〉あるいは〈密林の詩書けばわれ虎となる〉という句を発表しました。
観念の形象化を目指し、独特の絵画的詩世界が創出され、耽美と幻想が高度に結晶化しています。
全句業を展望しても千句に満たない富澤赤黄男の句群は、俳味より詩趣に軸足を置き、詩的圭角の濃密な作品ばかりです。
富澤赤黄男はやがて、代表 . . . 本文を読む