人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

ダッド ―― 精神病棟の画家

2015-08-23 23:50:55 | 美術
…………すでにリチャードの異常さは誰の目にも歴然としていた。しかし彼はできるかぎりその症状を隠し、父にも平静さを装った。そしてすぐにこの時期の主要作、シリアでの情景をもとにした《海辺で休息する隊商》に着手した。製作期間三ヵ月の間に、リチャード・ダッドはすでにエジプト神オシリスの支配下にあり、〝悪魔〟を殺す使命を担っていると確信するにいたるのである。 息子の様子が心配でならない父ロバートは、セントク . . . 本文を読む

ピカソの生涯

2014-10-04 08:57:32 | 美術
…………1902年から1903年にかけての冬、ピカソの困窮はひどいものだった。見かねたマックス・ジャコブが、ヴォルテール大通りにある自分の部屋を共有で使おうと申し出た。――ベッドはひとつしかなかったが、店員の仕事を見つけていたマックスは夜、ピカソは昼間そのベッドで眠った。彼はいつも夜になってから制作をはじめた。  貧しい共同生活の楽しさには、しかし限度があった。暖をとるために、ピカソの絵の束を燃や . . . 本文を読む

クローグ 《病気の少女》

2013-08-05 21:55:11 | 美術
 ――1880年からの二年間に描かれた《病気の少女》は、クローグのどの作品とも似ていない。1882年作の《髪を編む》はスガーエンで制作されているが、《病気の少女》はオスロで描かれたものと考えられている。モデルの少女が結核かどうかは不明だが、当時にあって結核はまだ死にいたる病であったことは確かである。 クローグ《病気の少女》__1 クローグ《病気の少女》__2 . . . 本文を読む

死の島

2013-01-11 07:24:21 | 美術
 1880年、53歳のベックリンは、まだ貧しく、その画風は当時の画壇の傾向とは合わなかった。支持者は少なかったものの、しかし徐々に認められはじめたところでもあった。そんな画家に、大きな転機がやってくる。当時、フィレンツェに住んでいたベックリンのもとを、その数少ない支持者の一人が訪ねてきて、「夢見るための絵」を一枚描いてほしいと注文したのである。――若くして夫と死に別れたマリー・ベルナ(後にビューデ . . . 本文を読む

スルバランの静謐な世界

2008-11-05 07:01:53 | 美術
■――絵画において表現された画像の神秘的性格は、空間の内面化によって強められます。ことにスルバランのような画家にあってはなおさらです。このような空間は、遠近法の法則によってではなく、むしろ聖なる出来事の内的法則とでもいうべきものに従っているかのようであり、聖なる人物の周囲には神秘的な光が漂い、そこからメタ空間が喚起されることにより、輝く光は静謐な詩情を深めながら画面全体を潤す――。そんなふうに感じ . . . 本文を読む

アルテミジア・ジェンティレスキ

2008-09-04 06:24:59 | 美術
■1593年にローマに生まれたアルテミジア・ジェンティレスキは、カラヴアッジョ派の画家オラーツィオの一人娘でした。オラーツィオは早くからアルテミジアの画才を認め、幼少から彼女を画家として指導しました。アルテミジアの1610年作とされる《スザンナと老人たち》では、すでに高度な技量をみとめることができ、また独自の表現にも達しています。この作品の翌年から12年にかけて、オラーツィオは友人のアゴスティーノ . . . 本文を読む

ゴッホとメニエール病

2008-08-30 00:03:20 | 美術
このページに掲載していた《ゴッホとメニエール病》は、加筆改定のうえ、 《ゴッホ ―― メニエール病とアウラ体験》と改題して、新規に以下のページに投稿しました。 ■ゴッホ ―― メニエール病とアウラ体験 . . . 本文を読む

マリー=テレーズ ―― ピカソの影で

2008-08-21 00:15:33 | 美術
■既述テキスト 《ピカソの生涯》 から、マリー=テレーズ・ワルテルに関する部分を抽出してみました。 「ピカソと出会ったとき、私は17歳でした。私は何も知らない少女でした。人生についても、ピカソについても、何も知りませんでした」――マリーは後にこう回想しています。 1977年、ピカソがムージャンで亡くなった4年後に、69歳のマリーは自殺をとげています。娘のマイアはこう語っています。 「母は父の . . . 本文を読む

暁斎の血みどろ絵

2008-08-16 00:23:01 | 美術
■一八三一年に茨城県で生まれた河鍋暁斎は、九歳のとき、増水した神田川で生首を拾うと、怖がりもしないでそれを夢中で写生したといいます。少年の熱心さを伝えるこのエピソードは、ある種の芸術家につきまとう伝奇的な挿話として、海外にまで紹介されています。 暁斎はのちに、黒い絽の紋付羽織の肩裏付に、不気味な血みどろ絵を描きました。磔刑にされた女と首を吊った男らの足元には、腐乱死体がころがり、それを鴉がついばみ . . . 本文を読む

絵師金蔵――笑う血みどろの画家

2008-08-15 00:05:14 | 美術
■幕末から明治のはじめにかけて、土佐の高知で、絵金と呼ばれる絵師が活躍しました。 ――天保の改革で芝居の上演が禁じられると、土佐では二曲一隻屏風に義太夫狂言を描いた芝居絵が現われます。芝居はもともと神社に奉納する行事でしたが、それにかわって集落ごとに芝居絵が神社に奉納されるようになると、そこから「絵競べ」が発生します。絵競べはその年の年占いでもあり、勝った方がその年の商売繁盛や豊作が約束されます。 . . . 本文を読む

空海の書

2008-08-14 00:03:19 | 美術
■空海の書のうち《風信帖》や《聾瞽指帰》について、簡略にまとめてみました。 《風信帖》第一通にある「降赴此院」の言葉は、最澄との関係や、その後の展開をおもうとき、とても印象に残ります。 〈空海の書〉_1 〈空海の書〉_2 〈空海の書〉_3 . . . 本文を読む

ダリ《イザベル・スタイラー=タス夫人の肖像》

2008-07-04 01:57:58 | 美術
■戦争中のアメリカの社交界で、ダリは肖像画家として大金を稼ぎました。それがどれほどガラの意図を反映したものであったにせよ、ダリがそのためにシュルレアリスムの技法を駆使したことは事実です。1945年にハリウッドで描かれた《イザベル・スタイラー=タス夫人の肖像》は、ダリ的な二重イメージに関する同様の多くの作品に比して、ひときわ興味深い点があります。 つまり、ここに描かれている、自然の特徴が人間の形態に . . . 本文を読む

ルドルフ・ハウスナー 《オデュッセウスの方舟》

2008-06-22 00:06:25 | 美術
■ルドルフ・ハウスナー(ハウズナー)は、ウィーン美術学校卒業後に第二次大戦に徴され、歩兵連隊に配属された頃、何かのきっかけで木の表面に異様なイメージを幻視するようになり、以来絵筆を持たず頭のなかで「絵を描きつづけた」時期があったといいます。 その後参加した芸術家協会で、ハウスナーはエルンスト・フックスをはじめ、のちに〈ウィーン派〉を形成することとなるフッターやレームデン、ブラウアーらを知ります。 . . . 本文を読む

古賀春江《海》

2008-05-28 01:16:36 | 美術
■大正後期から昭和のはじめにかけて、ひとりの前衛画家が活動しました。青年時代に同居中の画学生が猫イラズで自殺したことに衝撃をうけ、激しい精神的動揺にみまわれます。この画家が生きた大正モダニズムの時代は、文化面でも技術面でも進歩の著しい時代で、彼は激流に乗り遅れまいと必死に努力しましたが、やがてその神経は破綻していきました。そして彼は人間嫌いになり、自分の殻に閉じこもるようになっていきます。そのころ . . . 本文を読む

ピカソの生涯

2008-02-23 03:49:49 | 美術
このテキストは改定加筆のうえ、下記の移転しました。 ■ピカソの生涯 . . . 本文を読む