人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

アートマンとブラフマン

2018-04-19 04:02:56 | 神秘思想
 サンスクリット語で「自我」をあらわすアートマンは、インド哲学の術語で、「我」と漢訳されている。本来は呼吸を意味していたのが、やがて生気、生命原理、霊魂、自己、自我などの意に用いられ、万物に内在する霊妙な力、宇宙の根本原理の意味にまで深化した。
 またブラフマンは、宇宙の根本原因を表す術語で、これは「梵」と音写される。ジュニャーナ・ヨーガがその根拠としたベーダーンタ学派の教義は、インド哲学の主流だったが、このブラフマンの考察を主要目的として成立した。その根本経典『ブラフマ・スートラ』では、ブラフマンを、この世界に生起するもとのものと定義し、宇宙の質料因であると同時に動力因でもあると規定したうえで、ブラフマン以外の世界原因を否認しさえした。この概念は、最初は最高神を意味するようなものではなく、非人格的、抽象的な一元的原理と規定されていたが、やがてそのような中性的原理としてだけではなく、超越的な人格的存在とも考えられるようになった。ヒンドゥー教のビシュヌ神やクリシュナなどと同一視されたのは、その一例である。

 ウパニシャッドの哲学は、個人の本体であるアートマンはこのブラフマンと同一であるとして、梵我一如を説いた。この考えをさらに徹底させたのが、シャンカラを開祖とする学派の不二一元論で、ブラフマンはアートマンとまったく同一であり、それ以外の一切は幻影――マーヤーのように実体のないものにすぎないと主張した。またサーンキヤ哲学およびヨーガ哲学においては、アートマンを霊我――プルシヤと同一視し、宇宙の質料因としての根本物質――プラクリテイから完全に独立した、純粋な精神的原理とみなし、二元論の立場をとった。

 インド哲学史には、アートマンの存在をめぐって、肯定派と否定派の二大潮流がある。上述のベーダーンタ哲学は、最も有力なインド六派哲学のひとつだが、一元論的な肯定派の代表である。サーンキヤ哲学とヨーガ学派も、ともに六派哲学で、互いに深い関係にあり、その二元論的思想を共有している。一般に、正統バラモン教では、肉体は死とともに滅ぶが、アートマンは不滅なので、生死輪廻の主体となり、業により再生すると信じられた。
 しかし、釈迦はこれらの有我説に反対し、アートマンの存在を否定した。人間の行いを注意深く観察し、ときにあたたかく、さまざまに生起する欲望や、執着を離れた心のあり方を熟考する仏教の思考傾向は、アートマンの否定から無常観に立脚点をおくようになる。釈迦は、無常であるから苦であり、苦のゆえに無我であるとして、実体的思考を廃することを主張した。その悟りの四法印――つまり諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静のうち、諸法無我がこれに相当し、大乗仏教の時代になって、無我は「空」と同義と解釈された。この経緯は無我説とよばれている。また釈迦は、あらゆる存在は因と縁とによって生じたものであるから無我であるとも主張した。これは縁起説とよばれる。縁起――因縁生起とは、いっさいの現象は因――直接原因と縁――間接原因との相互作用によって生起するとする教説である。因果の連続体である人間の存在形式には、不変的・固定的・実体的なアートマンは存在しないというわけである。

 縁起説あるいは縁起観は、釈迦が深い瞑想によって菩提樹の下で悟った十二縁起とよばれる真理のビジョンに基づいている。これは人間存在の在り方を十二種の契機によって捉えようとするもので、すなわち無明にはじまり、行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生を経て、老死に終わる因果法則である。仏教では、無明を滅して生老病死の苦から解脱することが目標とされた。
 さらに、唯物論においても、精神的原理としてのアートマンの存在は否定された。仏教成立期の唯物論者として知られるアジタ・ケーサカンバリンは、人間存在を地・水・火・風の四元素から成るとして、死後に霊魂が残ることはないと主張した。霊魂は自身の肉体に他ならないとして、ゆえに来世をも否定した。アジタは六師外道の一人だが、彼の唯物論は快楽至上主義を含んでおり、業の報いを否定し、善悪の行為の報いも否定し、すなわち無因無果の立場から、道徳や宗教の必要性をも否定したため、彼の学派――順世派は正統バラモンから虚無主義と蔑視された。

■アートマンとブラフマン

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