■自分とそっくりの、もう一人の自分――ドッペルゲンガー。
ドッペルゲンガーと体外離脱体験とには、決定的な相違があります。それは離脱と分離の意味の違いを反映しており、離魂などといわれる場合の自己像幻視は、体外離脱よりもドッペルゲンガーのことを指すことが多いようです。主観的に体験するのが体外離脱、外在的に自己を目撃するのがドッペルゲンガーと考えられます。体外離脱体験時には、意識の変容がともなうことも . . . 本文を読む
■記憶と能力について、思いつくまま、話題を展開してみました。
本稿のおもな関心ごとは、以下のようなものです。
・記憶と理解力との関係
・さまざまな記憶について
・異常な記憶――超記憶や閃光記憶、あるいはサヴァン症
・短期記憶と長期記憶と直接記憶
・記憶術について
・能力の臨界期あるいは敏感期
〈記憶と能力〉_1
〈記憶と能力〉_2
〈記憶と能力〉_3
〈記憶と能力〉_4
〈記 . . . 本文を読む
■何らかの事故や外科手術などによって、上肢や下肢を切断した場合に、その失われた手や足がまだ実在するように感じられる現象を〈幻肢〉といいます。以下にこの幻肢についてまとめてみました。
■幻肢という不思議な感覚においては、切断する前と同様に、自由に手足を屈伸でき、痛みや痒みも感じる。同様の現象は、乳房や陰茎が切断された際にも希にみられるという。また脳卒中や脳の外傷、脊髄損傷や末梢神経障害で四肢が突然 . . . 本文を読む
■ペンフィールドの「解釈領」は、見方によると、求聞持法やアカシック・レコードの解明の手がかりとなるかもしれない、と私は考えます。しかし、この種の「能力」の獲得は、――人為的サヴァン症の「方法」の場合でもそうですが、なんらかの危険性をはらんでいることに注意すべきです。――「奇跡」というものが象徴的なメタファーを含んでいる以上、こうした能力についての知見は、それ自体の獲得をかならずしも必要とはしないと . . . 本文を読む
■「デジャ・ビュは「すでに体験したことがある」という既体験感と結びつくことがしばしばある。精神分析的な解釈では、なんらかの不安の誘因となる記憶や空想を再現する場面に遭遇するときに、それはすでに体験したことだから、何も心配することはないと、自己にいいきかせていると考えられる。」――
――デジャ・ビュには、オカルトめいた要素はなさそうです。
デジャビュ (既視感)
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■「脳梁が太いと、もちろんその逆のことがいえる。俗に「カンがするどい」といわれる人たちのなかには、それが脳梁の太さが理由とおもわれる相関関係があるらしい。勘が鋭いと、その観察力や情報の処理力が、まわりからは信じられないほどの能力と映ることがある」――
脳の機能と意識のありかたとのあいだにある関係によって、このいまの現実についての印象は相違してきます。すると、いったい客観性とは何か、主観性とは何か . . . 本文を読む