@じゃんだらりん

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【死ぬには早過ぎる男たち】

2008-01-21 | プロレス
※注意

↓この文章は、昔プロレス雑誌に掲載されたコラムを、記憶を遡って編集した文章で長文です。プロレスに興味の無い方は読み飛ばしてください。



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【死ぬには早過ぎる男たち】

1986年、新日本プロレスのシリーズ最終戦、両国国技館でのメインイベント。前代未聞のタッグマッチが行われた。

アントニオ猪木&上田馬ノ助 Vs アンドレ・ザ・ジャイアント&ショーグンKYワカマツ

悪役マネージャーとしてアンドレたちに付いて、猪木たち新日正規軍と抗争を続けていた”ショーグン・KY・ワカマツ”こと若松市政との決着戦として用意された舞台。

ハンディキャップマッチ?。いやそれでは猪木と上田の立つ瀬が無い。あくまで公平な2対2の試合。すなわち若松が「プロレスラー」として、メインイベントで試合を行うのだ。

男・若松。一世一代の晴れ姿である。

「吉原社長。故郷の皆さん。見てください!俺はやった!」

彼がかつて所属していた国際プロレス。そこでは万年前座レスラーだった。3試合目より上の試合に出たことが無かった。後輩たちが「武者修行」として次々に海外遠征に出て行ったが、自分に話が来ることは無かった。

当時の国際プロは、全日本、新日本の両団体に挟まれて経営は苦しかった。経営難の会社を助けるため、リングの組み立て。会場の片づけ、宣伝カーの運転からポスター貼りとアルバイトがやる雑用を引き受け、黙々とこなした。

「俺の試合で客が増えるわけでも喜ぶわけでもない。営業で客が増えるなら喜んでやる。」

そんな彼にようやく海外遠征の順番がまわってきた。それは「口減らし」だったかも知れない。なぜなら若松が遠征にでるまで会社は持たなかった。1981年に国プロは倒産した。

倒産後に若松に再就職の手を差し伸べた団体はあった。ただしそれは「一般職員」としてで、「レスラーとして海外遠征に出たい」という、彼の希望は一笑にふされた。

「故郷で壮行試合をやってもらい、地元の友人から餞別まで貰ってる。”会社が無くなったから行けません”では済まない。」

八方手を尽くして探したところ、思いがけない所から手が差し伸べられた。

カナダ・カルガリー地区。そこのプロモーター、スチュ・ハート氏。彼の息子スミスが日本にプロレス留学していた頃、若松は親身になって世話をした。そのスミスが父親を動かしたのだ。”情けは人のためならず”である。


若松はその報告を真っ先に、国際プロ社長・吉原功にした。当時借金に追われる苦しい身でありながら、吉原は渡航費用を餞別として渡した。吉原の生前にこのことは2人だけの秘密であった。


勇躍カルガリーにやってきた若松であったが、やはりレスラーとしての大成は望むべくも無かった。スチュは彼に対して「悪役マネージャー」への転向を進めた。

「ここまで来たら死んでも本望!なんでもやってやる!」

当時カルガリーに居たプロレスラー・高野俊二は語る。

「若松さんは、”海外向けのショーマン・シップを身につけたい”と僕のような20歳の若造に頭を下げました。凄い人です。リングを降りたら日本人レスラーはみんな若松さんを応援しました。」

もっともその”先生”をリング上では遠慮なく若松はぶっ叩いた。元・国際プロのエース、ラッシャー木村も、カルガリー遠征時に木刀で頭をボコボコにされている。

「市っつあん(国プロ時の愛称)はクソ真面目な性分だから、悪役に徹したら手加減てものを知らない(苦笑)」/木村・談。

本人も予想だにしなかった才能が花開いた。悪役マネージャー”ショーグン・KY・ワカマツ”の名は、たちまちビッグネームとなる。

カルガリー地区のトップ、ダイナマイト・キッドとの遺恨戦で20000人収容の会場を何度もソールドアウトとした。望外の拾い物に、S・ハートが大喜びしたことは言うまでもない。

この地に骨を埋めるつもりだったが、日本から「帰って来い」との連絡が入る。他ならぬ吉原からだった。現地でのKYワカマツの評判は既に日本へも伝わっていた。

行先は新日本プロレス。選手の大量離脱によって団体は陣容が手薄になっていた。今帰ればメインイベンター待遇で売り出してくれるという。そして吉原は新日本の顧問を務めていた。若松に迷いは無かった。


”謎のマスクマン軍団、ストロング・マシンーズ”を率いてA・猪木ら新日ら正規軍と抗争を繰り広げた。”イロモノ”と影で揶揄されたが、混乱期の新日リングを支えた実績は否定できない。世界の大巨人・アンドレを、マスクマンの”ジャイアント・マシーン”としたのは、単なる茶番でなく、”世紀の大茶番”だったろう。

そんな中、吉原の病状が悪化する。病は悪性だった。寝たきりになった吉原に若松はこう声をかけたという。

「社長。直ぐによくなります。そしたら又一緒に飲みましょう。」それは社長に対してついた、生涯で唯一つのウソだった。

1985年、日本プロレス界に残したその功績は計り知れない、偉大なパイオニアだった吉原功氏、死去。



そもそもアンドレもグリーンボーイ時代に吉原の招きで国際プロに来日し、のちのスーパースターとなる糸口をつかんだ。そのアンドレと組んで新日本の大エース、A・猪木とメインイベントで闘う。皮肉と言えばこれ以上の皮肉はない。

当日、リングへ向かう若松の目には、リングの天井でほほ笑む吉原の姿が見えているに違いない。そしてリングに上がったとき、彼は心の中でこう叫ぶに違いない。

「吉原社長。故郷の皆さん。見てください!俺はやった!」と。

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これはタイトルどおり、猪木&上田Vsアンドレ&ワカマツのタッグマッチを控えた当時のプロレス雑誌に掲載されたものです。反響が大きかったようでこの後連載化されてました。

今思えば、シリーズ最終決戦を盛り上げるための「アングル」の一つだったでしょうが、この虚々実々入り組んだ浪花節的シナリオ、泣かせる演出です。現在だったら、2時間のプロレス番組の1時間20分ぐらいは、このワカマツの波乱万丈の人生再現ドラマが放映されてるだろう。


何が言いたいか、つまり昨年末の「ハッスル」のTV放送です。客になめられているだけでなく、”所詮、こんなものだろう”という態度が、演じているレスラーからも漏れ出していた(ように感じた)。

「このストーリーで、客を興奮の頂点に導いてやる!」という姿勢は、どこからも感じられない。

プロレスってのは、「筋書きのあるドラマ」だが、それは周到に練られたシナリオと、”本物”の出演者の両方が揃っていて成り立つエンターティメントであって、それがないと、本当に観客たちを感動させ、自分たちの世界に引き込むことはできないと思います。





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