@じゃんだらりん

趣味(温泉・グルメ・音楽鑑賞・読書、コミック・日本史に世界史、ミステリーにミリタリー・時事)について語ってるブログです。

IWGP

2010-07-29 | プロレス

久々に更新しようと思ったカテゴリー、だが何を書く?。悩むのも面倒なので、とりあえず当時の一大イベントだった「IWGP(インターナショナル・レスリング・GP)」についてまとめてみようと思う。

その「IWGP構想」の大まかな話はこうだ。

・・・当時のA猪木率いる新日本プロレスが「真の世界統一王者を決めよう」とぶち上げて、世界の6地域(アジア、中近東、アメリカ、カナダ、メキシコ、欧州)で予選トーナメントを行い、日本で決勝を戦い、その勝者に「時価一億円」と言われたチャンピオンベルトを与えるというもの。将来は全日本プロレスのG馬場、J鶴田を始め、当時の「世界の3大タイトル」といわれたNWA、AWA、WWFのチャンピオンも参加し、名実ともに世界マット界を統一するのが最終目標である・・・・。

今から見れば、「あに言ってんだオマエ?」な内容なんだけども、当時の少年たちもイイ年した大人たちも「ホントに実現できるもの」と期待に胸ふくらませて喜んでいたような気がする。まあプロレスファンが素朴だった時代ですよ(笑)

このために、新日本はA・T・ブッチャーを全日本から引き抜き、激怒したG馬場に、逆にSハンセンやT・J・シンを引き抜かれて団体間の戦争に発展し、喧嘩を売った新日本サイドが逆にデカいダメージを受けるという、笑い話じみた結果になったりした。

最初は予選を行うはずの6地域も、ちゃんとトーナメントを開催したのは日本(アジア)とメキシコだけ。あとは「現地のプロモーターの推薦」という形で、カナダや欧州からは、そのプロモーター本人のD・ブラボーやO・ワンツがやってきたり、何故かヨーロッパ・チャンピオンになった前田明が欧州代表としてエントリーされたり、そのカナダ代表のブラボーは開会直前にドタキャンして帰国し、ラッシャー木村が何故か代理として出場となったり、中近東は参加枠に誰もエントリーすらされず、肝心のブッチャーは推薦参加もしない(移籍の建前は「IWGP構想に賛同したから」・・だったはずなのに。)、オマケにアメリカ代表のビック・ジョン・スタッドは本国では素顔なのに何故か覆面レスラーとして登場したり(しかもリングネームは同じ・・)

最初の構想からはかなりスケールダウンしたローカル大会になったIWGPだけど、世間的な注目度は相当高かったと覚えてる。この時は初代タイガーマスクも健在で、どこで興業を打っても会場は常に満員。TV中継も20㌫を常時超えていたというから現在の状況からは信じれないプロレス・ブームだった。またはプロレス・バブルというべきか。

しかしながらこのIWGP、最後の決勝戦で最大の事件を起こしてしまう。そもそも、「猪木が優勝。世界一になる」のが当初のシナリオだったはずなのに、例の「”舌だし”失神」で猪木は起き上がらず、何故かハルク・ホーガンがチャンプになってしまった。この辺の経緯は既に暴露記事が山とあるんで書くことはないけど、結果的にこのIWGPを開催したことが、新日本プロレスの内紛と暗闘を加速させてしまった。

これら不祥事の連続発生が、後に「呪われたIWGP」と囁かれた由縁。分不相応なことをしたからバチがあたったんだ。というのも笑い話に聞こえないほどケチがつきまくった大会でした。


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