青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

伊勢神宮展

2010年10月23日 20時14分13秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 今日は日本橋の三越でやっている、
 伊勢神宮展を見てきました。
 東京大神宮でパンフレットを配っていてそれで知ったのですが、
 神社好きの私としては、ゼヒ行っておきたくて。

 やはり歴史の重みはただものではありませんね。
 先祖代々、多くの人達が育み、伝承してきた文化って、
 見るたびに神々しい魅力を感じます。


 いつかは伊勢神宮と熱田神宮には行ってみたくて、
 その雰囲気だけでも味わえてよかったです。
 本当に参拝できる日を、切に楽しみにしています。

蒲田八幡神社

2010年10月23日 16時12分36秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 どん底からの、生還。

 実は8月中頃、私は「社会的な生死」の境目にいたんです。
 その最中に、羽田空港に行く横でふと見かけた、
 この蒲田八幡神社。
 すがるようにお参りしたことが偲ばれます。
 多くの暖かい眼差しで、
 なんとか立ち直れたことに感謝です。


 私はこのまま終わらないんだから。

「気持ち良さ」には素直に。

2010年10月23日 15時25分27秒 | 青裸々日記。
JR内房線(千葉県鋸南町)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 電車で席を譲ると、時に座っているよりも気分がよくなることがあるものです。
 このように、人に親切にすると、なぜ気持ちがよいのでしょうか!?

 理由は様々ですが、
 私はその一つに、「自分の居場所が得られるから」というものがあるのだと思います。
 自分の力を出すことで、
 誰かが助かったり、安息を得られたりする、
 あるいは、力を合わせることで、ステキなものを築いていけるのであれば、
 親切にしたい気持ちに従わない理由なんて、どこにもないと思うんですよ。

 ちなみに私は去年、「「優しいですね」という言葉は時に毒になるんですよ」という投稿をしたんですが、
 根本的な理由は同じです。
 どうせ人と接するなら優しくしておくほうがお互いに気持ち良いわけで、
 「優しくする」ことは、別段そんなに褒められたことでもないのです。
 人に優しくするのは、呼吸をするのと同じレベルの話。
 つまりは「褒める所がないか、優しくすることの気持ち良さがわかっていないか」のどちらかの意味合いになりかねず、
 場合によってそれは失礼なんじゃないの!?と警鐘を鳴らしておきたかったからです。


 さて。

 余計な話をしてしまいましたが、
 人のために力になれることがあれば、
 それを惜しむことはありません。
 ただし、「人のため」と言っても様々です。

 身を削って血を流し、それで誰かを助ける。
 単純に気分がよくなるから、やってみる。
 自分に酔いたいから、ちょっと腕を捲ってやる。

 いずれも「人を助ける」ことには変わりがありません。
 私が言いたいのは、「なるべく犠牲をせず、無理なく人のためになることをしましょう」ということ。
 人に素直にして気持ち良さを感じるなら、
 それをどんどんやっていけば、
 文字通り「互恵的な関係」になれるわけです。

 もちろん、善意や感動の押し売りは厳に慎む必要があります。
 しかし、自分の善意が相手に通じているかどうかがわかれば、
 きっとより良い善意の投げ方がわかると思うんです。



 相手がどう出ようと、自分は善意に生き、従っていく。
 本当はすごく厳しく難しい話です。
 やってみればすぐにわかります。

 しかし、それを1mmでも乗り越えられた時、
 精神的な収穫が得られるのではないでしょうか。

同音異義。

2010年10月23日 14時07分58秒 | 青裸々日記。
岩井神社への道から(千葉県南房総市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 同じ花の写真を見るのでも、
 全体を俯瞰した写真か、細部を拡大した写真かで変わってくるものですよね。
 また、「咲き始めか散り際か」でも、表情は違います。
 さらに、上からか下からか、はたまたどんな角度から見るかで、
 やはり同じ花には見えない位、違うものと感じることがあるものです。


 これと同じことが、言葉にも言えるのではないでしょうか。


 ☆ ☆ ☆

 同じ言葉を言っているようでも、
 受け手の環境や感じ方、受け止め方で、
 意味合いが全然違ってくる場合があります。

 「自分に優しくしましょう」
 「人よりまず自分が大切です」
 こういう「甘い言葉」がその代表例です。
 たとえ罪のない言葉であっても、
 相手を間違えると、図に乗ったり勘違いする危険性があります
 本当に涙が出る位、努力をしている人に投げ掛けるのと、
 普段から横柄や無礼を働く人に言うのでは、
 どちらが「甘い言葉」を掛けるに相応しいかといえば、
 明らかに前者ですよね。
 あるいはまた、自分だけ「悟り」を開いてしまった人の言葉もそうです。
 いくら心地好い気分で「真理」を知ったと喧伝したところで、
 「苦しんでいる渦中にいる人」にいくら同じ言葉を言っても、
 必ずしも同じ感覚になって「悟って」くれるかは、また別の問題だったり。


 だいたい人間、自分に優しくしていても、いつもいつも気持ちがよいとは限らないものです。
 向上心があればこそ、自分にビシバシと「しつけ」をして、
 さらに上を目指せるわけです。
 そういう努力って、自発的にやっているものであれば、
 きっと楽しいハズなんですよ。
 反対に、「水は低きに流れる」と言うように、
 なあなあにしているうちに、さらにダラける方法を探してしまう。
 そうすれば、最終的には完璧に依存できる人を探す以外、道がなくなってしまいます。
 なにより、それで本人が幸せになるとは思えません。



 つまり、
 「一人ひとりに、掛けるべき言葉は違う」
 「言葉の持つ威力を軽視すると、とんでもない誤解をする人が出て来る」

 こう言いたいのです。



 他人にどんな言葉を掛けられようが、
 それを最終的にどう受け取るかは、自分の責任です

 もちろん、言われのない理不尽には、対処をする必要はあるでしょう。
 しかし、「発する/受け止める」のコントロール出来るのは自分の側でしかありません

 だからこそ、誰もが」言葉を受け止める」とはどういうことか、
 いつかは考えておく必要があるのです。

短信

2010年10月23日 01時30分56秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日もありがとうございます


 ぁあぁー、マジへこむ…

 迷惑メールに紛れて、大事な大事な大事なメールまで消しちゃったじゃないかぁ
 これじゃあ返事が出来ないじゃん


 返信がなかった皆さん、
 別に嫌ったりとか言うわけではないので…
 むしろ返信がしたかったんです、本当に

 めげずにまたメールして下さると嬉しいです

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