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岩井神社への道から(千葉県南房総市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
同じ花の写真を見るのでも、
全体を俯瞰した写真か、細部を拡大した写真かで変わってくるものですよね。
また、「咲き始めか散り際か」でも、表情は違います。
さらに、上からか下からか、はたまたどんな角度から見るかで、
やはり同じ花には見えない位、違うものと感じることがあるものです。
これと同じことが、言葉にも言えるのではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
同じ言葉を言っているようでも、
受け手の環境や感じ方、受け止め方で、
意味合いが全然違ってくる場合があります。
「自分に優しくしましょう」
「人よりまず自分が大切です」
こういう「甘い言葉」がその代表例です。
たとえ罪のない言葉であっても、
相手を間違えると、図に乗ったり勘違いする危険性があります。
本当に涙が出る位、努力をしている人に投げ掛けるのと、
普段から横柄や無礼を働く人に言うのでは、
どちらが「甘い言葉」を掛けるに相応しいかといえば、
明らかに前者ですよね。
あるいはまた、自分だけ「悟り」を開いてしまった人の言葉もそうです。
いくら心地好い気分で「真理」を知ったと喧伝したところで、
「苦しんでいる渦中にいる人」にいくら同じ言葉を言っても、
必ずしも同じ感覚になって「悟って」くれるかは、また別の問題だったり。
だいたい人間、自分に優しくしていても、いつもいつも気持ちがよいとは限らないものです。
向上心があればこそ、自分にビシバシと「しつけ」をして、
さらに上を目指せるわけです。
そういう努力って、自発的にやっているものであれば、
きっと楽しいハズなんですよ。
反対に、「水は低きに流れる」と言うように、
なあなあにしているうちに、さらにダラける方法を探してしまう。
そうすれば、最終的には完璧に依存できる人を探す以外、道がなくなってしまいます。
なにより、それで本人が幸せになるとは思えません。
つまり、
「一人ひとりに、掛けるべき言葉は違う」
「言葉の持つ威力を軽視すると、とんでもない誤解をする人が出て来る」
こう言いたいのです。
他人にどんな言葉を掛けられようが、
それを最終的にどう受け取るかは、自分の責任です。
もちろん、言われのない理不尽には、対処をする必要はあるでしょう。
しかし、「発する/受け止める」のコントロール出来るのは自分の側でしかありません。
だからこそ、誰もが」言葉を受け止める」とはどういうことか、
いつかは考えておく必要があるのです。
こんにちは。
今日もありがとうございます。
同じ花の写真を見るのでも、
全体を俯瞰した写真か、細部を拡大した写真かで変わってくるものですよね。
また、「咲き始めか散り際か」でも、表情は違います。
さらに、上からか下からか、はたまたどんな角度から見るかで、
やはり同じ花には見えない位、違うものと感じることがあるものです。
これと同じことが、言葉にも言えるのではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
同じ言葉を言っているようでも、
受け手の環境や感じ方、受け止め方で、
意味合いが全然違ってくる場合があります。
「自分に優しくしましょう」
「人よりまず自分が大切です」
こういう「甘い言葉」がその代表例です。
たとえ罪のない言葉であっても、
相手を間違えると、図に乗ったり勘違いする危険性があります。
本当に涙が出る位、努力をしている人に投げ掛けるのと、
普段から横柄や無礼を働く人に言うのでは、
どちらが「甘い言葉」を掛けるに相応しいかといえば、
明らかに前者ですよね。
あるいはまた、自分だけ「悟り」を開いてしまった人の言葉もそうです。
いくら心地好い気分で「真理」を知ったと喧伝したところで、
「苦しんでいる渦中にいる人」にいくら同じ言葉を言っても、
必ずしも同じ感覚になって「悟って」くれるかは、また別の問題だったり。
だいたい人間、自分に優しくしていても、いつもいつも気持ちがよいとは限らないものです。
向上心があればこそ、自分にビシバシと「しつけ」をして、
さらに上を目指せるわけです。
そういう努力って、自発的にやっているものであれば、
きっと楽しいハズなんですよ。
反対に、「水は低きに流れる」と言うように、
なあなあにしているうちに、さらにダラける方法を探してしまう。
そうすれば、最終的には完璧に依存できる人を探す以外、道がなくなってしまいます。
なにより、それで本人が幸せになるとは思えません。
つまり、
「一人ひとりに、掛けるべき言葉は違う」
「言葉の持つ威力を軽視すると、とんでもない誤解をする人が出て来る」
こう言いたいのです。
他人にどんな言葉を掛けられようが、
それを最終的にどう受け取るかは、自分の責任です。
もちろん、言われのない理不尽には、対処をする必要はあるでしょう。
しかし、「発する/受け止める」のコントロール出来るのは自分の側でしかありません。
だからこそ、誰もが」言葉を受け止める」とはどういうことか、
いつかは考えておく必要があるのです。
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