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一面の水田(千葉県四街道市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
自信というものは、得てして厄介なものです。
では、なぜ厄介なのか。
それは、自信とは「決まった正解がないもの」だからです。
自信とは、「自分を信じる」と書きます。
だから自分をしっかりさせましょう、
成果をあげましょう、
人に気配りをしましょう
…という話で済むものではないのです。
「信じる」ということがいかに難しいかわかっていれば、
たちどころに「自信」について軽々しく口を叩けなくなるハズです。
「信じる」というのは、
不確定のものに対して、希望や予測の通りになることを期待することを言います。
つまり、目隠しをされても、たとえ手から放しても、
「そこにある」と思えることこそが、
「信じる」ということなのです。
そう思えばこそ、自信というものがいかに厄介かが理解できるのではないでしょうか。
先の話を当てはめれば、
「自信」とは、自分の価値や性質、長所が「そこにある」と思えることになります。
しかし悲しいかな、自信というのはたまに人を裏切るものです。
どんなに「そこにある」と思っていた長所や力があるにせよ、
いつも必ず絶対に発揮できるとは限らないわけです。
言い換えれば、誰だって失敗はするし、
自分の力が十分に生きないことだって、
いくらでも経験するわけです。
「自分を勘違いする」というやつです。
こうして自分に裏切られることで、
人間は自信を失い、人格が萎縮していくわけです。
しかし、どうでしょう。
100%の自信なんて、もはや「自信」と呼べないのではないでしょうか。
不確定な自分に対して信頼を向けるのが「自信」なのであれば、
必ずやり遂げるとわかりきっていれば、
わざわざ「自分を信じる」必要というか、余地はないわけです。
誰だって裏切られ続ければ、その人を信じるなんて出来ません。
それは自分であっても同じです。
しかし、裏切られた人をもう一度信じられた時、
それは大きな絆になると思うのです。
裏切った相手が自分自身だとしても、です。
どうせ失敗が避けられないのだとすれば、
「自信は失うもの」だと知っておくことです。
そもそも、自信がなくなるというのは本当は健全なこと。
「そこにある」と思ってものがないとわかればこそ、
修正し、やり直すことが出来るのです。
「自信を失う」と言うと一見とてもネガティブなことに思えますが、
なんのことはない、自信を失うのは間違えた方向に進まないための、いわば安全装置のようなものなのです。
そうやって少しずつ信じられる自分、
自分が見張っていなくてもちゃんと価値や力を発揮してくれる自分を作っていくことこそが、
「自信を育む」ということになるのではないでしょうか。
ちなみに。
過保護の時代、と言われています。
両親になんでもしてもらえたり、
挫折を避けるような環境にいると、
自信は育ちません。
自分を見失って、生身の自分のどうしようもなさを思い知って、
そして「自分の力で」獲得するのが自信だからです。
誰かの庇護があるうちは、自分と向き合うこともありません。
ゆえに、いつまでも「そこにありますよ」と人に言ってもらっているうちに、
信じる力が弱くなってしまうのです。
自分を勘違いし、それが勘違いだったと知り、
そこからどれだけ自分一人で力を出せるかがわかってこそ、
「自信」になるのです。
そこをわかっていない人を見ると、
どこか危うさを感じてしまうのです。
いずれにしても。
絶対の自信というものがない以上、
自信というものについて考えるには限界があります。
「自信は時に裏切る」と知っていればこそ、
安心して自信を持てることもあるのではないでしょうか。
こんにちは。
今日もありがとうございます。
自信というものは、得てして厄介なものです。
では、なぜ厄介なのか。
それは、自信とは「決まった正解がないもの」だからです。
自信とは、「自分を信じる」と書きます。
だから自分をしっかりさせましょう、
成果をあげましょう、
人に気配りをしましょう
…という話で済むものではないのです。
「信じる」ということがいかに難しいかわかっていれば、
たちどころに「自信」について軽々しく口を叩けなくなるハズです。
「信じる」というのは、
不確定のものに対して、希望や予測の通りになることを期待することを言います。
つまり、目隠しをされても、たとえ手から放しても、
「そこにある」と思えることこそが、
「信じる」ということなのです。
そう思えばこそ、自信というものがいかに厄介かが理解できるのではないでしょうか。
先の話を当てはめれば、
「自信」とは、自分の価値や性質、長所が「そこにある」と思えることになります。
しかし悲しいかな、自信というのはたまに人を裏切るものです。
どんなに「そこにある」と思っていた長所や力があるにせよ、
いつも必ず絶対に発揮できるとは限らないわけです。
言い換えれば、誰だって失敗はするし、
自分の力が十分に生きないことだって、
いくらでも経験するわけです。
「自分を勘違いする」というやつです。
こうして自分に裏切られることで、
人間は自信を失い、人格が萎縮していくわけです。
しかし、どうでしょう。
100%の自信なんて、もはや「自信」と呼べないのではないでしょうか。
不確定な自分に対して信頼を向けるのが「自信」なのであれば、
必ずやり遂げるとわかりきっていれば、
わざわざ「自分を信じる」必要というか、余地はないわけです。
誰だって裏切られ続ければ、その人を信じるなんて出来ません。
それは自分であっても同じです。
しかし、裏切られた人をもう一度信じられた時、
それは大きな絆になると思うのです。
裏切った相手が自分自身だとしても、です。
どうせ失敗が避けられないのだとすれば、
「自信は失うもの」だと知っておくことです。
そもそも、自信がなくなるというのは本当は健全なこと。
「そこにある」と思ってものがないとわかればこそ、
修正し、やり直すことが出来るのです。
「自信を失う」と言うと一見とてもネガティブなことに思えますが、
なんのことはない、自信を失うのは間違えた方向に進まないための、いわば安全装置のようなものなのです。
そうやって少しずつ信じられる自分、
自分が見張っていなくてもちゃんと価値や力を発揮してくれる自分を作っていくことこそが、
「自信を育む」ということになるのではないでしょうか。
ちなみに。
過保護の時代、と言われています。
両親になんでもしてもらえたり、
挫折を避けるような環境にいると、
自信は育ちません。
自分を見失って、生身の自分のどうしようもなさを思い知って、
そして「自分の力で」獲得するのが自信だからです。
誰かの庇護があるうちは、自分と向き合うこともありません。
ゆえに、いつまでも「そこにありますよ」と人に言ってもらっているうちに、
信じる力が弱くなってしまうのです。
自分を勘違いし、それが勘違いだったと知り、
そこからどれだけ自分一人で力を出せるかがわかってこそ、
「自信」になるのです。
そこをわかっていない人を見ると、
どこか危うさを感じてしまうのです。
いずれにしても。
絶対の自信というものがない以上、
自信というものについて考えるには限界があります。
「自信は時に裏切る」と知っていればこそ、
安心して自信を持てることもあるのではないでしょうか。
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