たまたま『四次元』123号(Feb-61、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
(1) 「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
そしてそれは次のように始まっていた。
編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査 . . . 本文を読む
1 千葉恭の長男に会う
みちのくに植田の緑が広がる6月のある日、私はわくわくしながら国道4号線を南下して水沢に向かった。千葉恭の長男E氏宅を訪れる約束の日がやってきたからである。果たして水沢の真城に〝町下〟という地名があり、そ場所に当時千葉恭の実家が8反歩の田圃を有していたかどうかが確認できる日だ。一度E氏宅が近づいたところで電話をして道順を訊ねると、道路の脇に立って待っているからという。優しい . . . 本文を読む
今まで少しく千葉恭のことを調べてきて知ったのが、千葉恭自身が書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、千葉恭と賢治との関係に言及している恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)。千葉恭は賢治とおそらく8ヶ月間強を下根子桜で一緒に暮らしているはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~少なくとも昭和2年頃までの足かけ4年の . . . 本文を読む
それにしてもどうしてなのだろうか、『新校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房)の中にある賢治の年譜等をも含め、どんな本を見ても千葉恭が下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間は今だもってはっきりと記されていないようだ。
それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいもあるのだろう。
(1) 千葉恭の言っていること
ただし振り返ってみれば、 . . . 本文を読む
当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
実際、『宮沢賢治全集 十一』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した。
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本 宮澤賢治 . . . 本文を読む
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。
少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は〝独居自炊〟生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と寝食を共にしていたということを、賢治は「下根子桜時代」〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥が約40年前に
賢治はあまりにも偶像化・神格 . . . 本文を読む
では、私にとっては『もう一つの〝1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが』についてここでは述べてみたい。
そもそもなぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを決定したかったからだ。
(1) 千葉恭は賢治から〝どやされた〟甚次郎を見ていた
以前述べたことでもあるが千葉 . . . 本文を読む
さて幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の日誌。それはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
(1) 大正25年12月25日の日記
その一つは、松田甚次郎の大正25年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
…
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
国道ヲ沿ヒテ南日詰 . . . 本文を読む
どうして私は突然『新庄ふるさと歴史センター』を思い出したのだろうか。それはおそらく過去に一度そこを訪れたときの何かが私をそうさせたに違いない。
(1) 松田甚次郎の足跡を訪ねて
かつて松田甚次郎の古里新庄鳥越を訪ねたことがある。それは松田甚次郎生誕100周年の2009年のことであった。昭和2年3月8日に賢治を訪ねて『小作人たれ、農村劇をやれ』と賢治から諭されて実際そのとおりに実践、いわば「賢治 . . . 本文を読む
さて、松田甚次郎が賢治の許を訪問したことは昭和2年3月8日以外にもあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要があると覚ったので、そのことを次に試みた。
(1)『宮澤賢治研究』より
その関連で思い出したのがまず『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)である。同著の中で松田甚次郎は「宮澤先生と私」というタイトルで次のような追想を著していた。
盛岡高等 . . . 本文を読む
松田甚次郎が宮澤賢治を訪ねたといえば直ぐに思い浮かぶのが昭和2年3月8日のことである。
(1) ベストセラー『土に叫ぶ』には
そのときのことを松田甚次郎は当時の大ベストセラー『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。
一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と . . . 本文を読む
さて、千葉恭のあの「暦日及び期間」は今だもって確定できないでいる。いくつかのアプローチを試み、その結果いくつかの点が明らかになったとはいっても肝心のこのことには殆ど近付けないでいる。
残念ながら現時点でこの「暦日及び期間」に関してほぼ確かなことは
大正15年7月25日前後千葉恭は下根子桜の宮澤家別荘に寄寓していた。
ということだけである。
そこでもう一度千葉恭に関して現在までに手に入れ . . . 本文を読む
なんと、幸運にも千葉恭と同じ職場に勤務したことがあるという方とお会いできた。その方は奇しくも同じ姓の千葉K氏という、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。
その千葉K氏は、千葉恭とは
1回目は、昭和11~14年頃に穀物検査所黒沢尻出張所(このとき千葉恭は副出張所長)で、
2回目は、昭和29~31年に食糧管理事務所和賀支所(このとき千葉恭は和賀 . . . 本文を読む
切れかかっていた糸がもしかすると繋がるかも知れない…。
1. 千葉恭の三男M氏に会う
わくわくしながら胆沢町図書館からの回答を待っていると、それは期待通りのものであった。
(1) 三男M氏と連絡が付く
胆沢町図書館からの回答は『Mさんの住所が判りました。また、Mさんからあなたに電話番号を教えてよいという了解ももらいましたので直接連絡を取ってみてください。』
であった。私は喜びのあまり抃舞した . . . 本文を読む
いくつかの方途であの「暦日及び期間」を探ってみたつもりだったのだが、「暦日及び期間」どころか千葉恭の生家さえも本籍地さえも全く解らない。もうこなると知人の力を借りるしかない。
1. 宮澤賢治研究家K氏
そこで訪ねたのが宮澤賢治研究家のK氏である。以前松田甚次郎等に関して教えてもらいたくて訪ねたことがある地元の宮澤賢治研究家の一人であり、実証的なアプローチを大切にしている人である。するとK氏 . . . 本文を読む