下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
§11. 千葉恭の生家探し
残念ながら、私が手に入れることが出来た【千葉恭関係文献等】に全て目を通してみたのだが、千葉恭の下根子桜の別荘寄寓の「暦日や期間」はそれらの中のいずれにも、どこにも明確には書かれていなかった。最初はそんなことはすぐに判るだろうとたかをくくっていた私はすっかり落胆してしまった。こうなれば資料から探ることは諦め、原点に立って千葉恭の出生地を訪ねてみよう、と思い立った。
1. 千葉恭の古里盛町へ
というわけで、タウン誌『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、‘02年3月)に「彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である」と書かれていたから、千葉恭の古里大船渡市盛町を訪れた。生家や縁者をお訪ねして千葉恭についてお訊きするか、近所の方に彼の人柄やエピソードなどを訊いてみようと思ったのである。
とはいえ手がかりはこのタウン誌の情報しかなかったので、先ずは大船渡市立図書館を訪ねてみた。そして『盛町は千葉恭という人の出身地ということですが、その人の関連資料を見せていただけないでしょうか』とお訊ねすると職員の方はとても親切に対応して下さり、資料の検索等をして下さった。しかし残念ながらその関連資料はほとんどなく、結局千葉恭の下根子桜の寄寓期間はもとより本籍地すらも判らなかった。あった関連資料はのその図書館の蔵書として『宮沢賢治研究資料集成 第7巻』(続橋達雄著、日本図書センター)だけであったからである。とはいえ、ここはやはり千葉恭出身地なのだということも確信した。続橋の本には「宮沢先生を追ひて」(『四次元』と全く同じ内容のものを一括して)が載せてあるからである。おそらく千葉恭自身あるいは縁者が寄贈したのかも知れないななどと想像をめぐらしてみた。また、職員の方は千葉恭に関してはもっと調べてみますからと親切に仰ってくださったので、その結果に期待もした(なおこのことに関しては後日市立図書館から電話連絡があり、千葉恭に関してはあれ以上のことは判りませんと)。
さて図書館を後にして、地元の二、三の旧家を訪ねて千葉恭のことを訊いて廻った。が、千葉恭自身そのものも含めて残念ながら関連事項さえも全く分からなかった。大船渡一帯には千葉姓が多いのでなおさら判りにくいようである。
ならばと次は地元の新聞社「東海新聞」社に訊いてみた。千葉恭本人のことは分からないということだったが、”盛町の生き字引といわれている”古老を紹介してもらった。しかし、期待に胸ふくらせてその古老にお訊きしたのだがその古老でさえも千葉恭のことは知らないということだった。
私は途方にくれてしまった(なおなぜこのときに千葉恭のことがほとんど判らなかったのかという理由、当然判るはずはなかったのだという訳は後程明らかになる)。
2. 水沢農学校ルート
結局は千葉恭の古里を訪ねては見たものの、千葉恭の生家どころか本籍地さえも分からずにしょぼくれて花巻に帰るしかなかった盛町訪問であった。
(1) 水沢農学校同窓会
さあて、千葉恭に近づくにはどんな方途が次にあるだろうか。そこで思いついたのがやはりまたタウン誌『ふるさとケセン67号』の情報であった。このタウン誌には、千葉恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったからだ。
そこで先ずは水沢農業高校に電話をして、同窓会担当の先生にお願いしてみた。『大正13年卒の同窓生で千葉恭という人がおられるはずですが、その人の関連資料を見せて貰えないでしょうか』と。おそらく、宮澤賢治と約半年一緒に生活したという人だから同窓生の間では著名な人物の一人だと思ったからであった。ところが私の想像とは裏腹に、担当の先生からは逆に『千葉恭という人はどんな人ですか』と訊き返されるというものだった。そこで私は『千葉さんは宮澤賢治と約半年一緒に生活をした人で賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか』と重ねてお願いした。すると検討してみますからということで期待したのだが、その回答は『残念ながらお見せできません』というつれないものだった。
つい先だってまでは岩手県の公立高等学校ではそれぞれの図書室や図書館を開放し、蔵書を一般人にも閲覧させてくれていたのだったがいつの間にそれが叶わなくなったのだろうかと訝しく思った。これじゃ、まして千葉恭の写真を見せてもらうとか本籍地を教えてもらうとかはまず無理であろうと判断した。それらは個人情報ですからお見せできませんと断られるのは見え見えだったからである。
(2) 水沢農業高校同窓会名簿
さて水沢農業高校の同窓会担当の方にこれ以上お願いすることを諦めてはみたものの、やはりこのルートは捨てがたい。そんなとき思い出したのが私の叔父さんの中に水沢農業高校の卒業生がいるということだった。早速その叔父さんに電話して同窓会名簿を持っておりませんかと訊ねたところ、持っているとの返事。押っ取り刀で叔父さん宅を訪れ、同窓会名簿を見せて貰った、そこに千葉恭の本籍地が書いていないかと期待しながら。
するとある頁に
第21回(大正13年3月卒業) 52名
というタイトルがあった。五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと確かにあるではないか
千葉 恭
と。一瞬喜んではみたものの束の間、それは直ぐ落胆に変わった。千葉恭に関してはあるのはその氏名だけで、千葉恭に関しては本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったのだ。まただめだったか、私は肩を落とすしかなかった。
というわけで、水沢農学校ルートから千葉恭の本籍地等を知ろうとしたのだが、何一つ新しい情報は得ることができなかったのである。
続きへ。
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1. 千葉恭の古里盛町へ
というわけで、タウン誌『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、‘02年3月)に「彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である」と書かれていたから、千葉恭の古里大船渡市盛町を訪れた。生家や縁者をお訪ねして千葉恭についてお訊きするか、近所の方に彼の人柄やエピソードなどを訊いてみようと思ったのである。
とはいえ手がかりはこのタウン誌の情報しかなかったので、先ずは大船渡市立図書館を訪ねてみた。そして『盛町は千葉恭という人の出身地ということですが、その人の関連資料を見せていただけないでしょうか』とお訊ねすると職員の方はとても親切に対応して下さり、資料の検索等をして下さった。しかし残念ながらその関連資料はほとんどなく、結局千葉恭の下根子桜の寄寓期間はもとより本籍地すらも判らなかった。あった関連資料はのその図書館の蔵書として『宮沢賢治研究資料集成 第7巻』(続橋達雄著、日本図書センター)だけであったからである。とはいえ、ここはやはり千葉恭出身地なのだということも確信した。続橋の本には「宮沢先生を追ひて」(『四次元』と全く同じ内容のものを一括して)が載せてあるからである。おそらく千葉恭自身あるいは縁者が寄贈したのかも知れないななどと想像をめぐらしてみた。また、職員の方は千葉恭に関してはもっと調べてみますからと親切に仰ってくださったので、その結果に期待もした(なおこのことに関しては後日市立図書館から電話連絡があり、千葉恭に関してはあれ以上のことは判りませんと)。
さて図書館を後にして、地元の二、三の旧家を訪ねて千葉恭のことを訊いて廻った。が、千葉恭自身そのものも含めて残念ながら関連事項さえも全く分からなかった。大船渡一帯には千葉姓が多いのでなおさら判りにくいようである。
ならばと次は地元の新聞社「東海新聞」社に訊いてみた。千葉恭本人のことは分からないということだったが、”盛町の生き字引といわれている”古老を紹介してもらった。しかし、期待に胸ふくらせてその古老にお訊きしたのだがその古老でさえも千葉恭のことは知らないということだった。
私は途方にくれてしまった(なおなぜこのときに千葉恭のことがほとんど判らなかったのかという理由、当然判るはずはなかったのだという訳は後程明らかになる)。
2. 水沢農学校ルート
結局は千葉恭の古里を訪ねては見たものの、千葉恭の生家どころか本籍地さえも分からずにしょぼくれて花巻に帰るしかなかった盛町訪問であった。
(1) 水沢農学校同窓会
さあて、千葉恭に近づくにはどんな方途が次にあるだろうか。そこで思いついたのがやはりまたタウン誌『ふるさとケセン67号』の情報であった。このタウン誌には、千葉恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったからだ。
そこで先ずは水沢農業高校に電話をして、同窓会担当の先生にお願いしてみた。『大正13年卒の同窓生で千葉恭という人がおられるはずですが、その人の関連資料を見せて貰えないでしょうか』と。おそらく、宮澤賢治と約半年一緒に生活したという人だから同窓生の間では著名な人物の一人だと思ったからであった。ところが私の想像とは裏腹に、担当の先生からは逆に『千葉恭という人はどんな人ですか』と訊き返されるというものだった。そこで私は『千葉さんは宮澤賢治と約半年一緒に生活をした人で賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか』と重ねてお願いした。すると検討してみますからということで期待したのだが、その回答は『残念ながらお見せできません』というつれないものだった。
つい先だってまでは岩手県の公立高等学校ではそれぞれの図書室や図書館を開放し、蔵書を一般人にも閲覧させてくれていたのだったがいつの間にそれが叶わなくなったのだろうかと訝しく思った。これじゃ、まして千葉恭の写真を見せてもらうとか本籍地を教えてもらうとかはまず無理であろうと判断した。それらは個人情報ですからお見せできませんと断られるのは見え見えだったからである。
(2) 水沢農業高校同窓会名簿
さて水沢農業高校の同窓会担当の方にこれ以上お願いすることを諦めてはみたものの、やはりこのルートは捨てがたい。そんなとき思い出したのが私の叔父さんの中に水沢農業高校の卒業生がいるということだった。早速その叔父さんに電話して同窓会名簿を持っておりませんかと訊ねたところ、持っているとの返事。押っ取り刀で叔父さん宅を訪れ、同窓会名簿を見せて貰った、そこに千葉恭の本籍地が書いていないかと期待しながら。
するとある頁に
第21回(大正13年3月卒業) 52名
というタイトルがあった。五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと確かにあるではないか
千葉 恭
と。一瞬喜んではみたものの束の間、それは直ぐ落胆に変わった。千葉恭に関してはあるのはその氏名だけで、千葉恭に関しては本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったのだ。まただめだったか、私は肩を落とすしかなかった。
というわけで、水沢農学校ルートから千葉恭の本籍地等を知ろうとしたのだが、何一つ新しい情報は得ることができなかったのである。
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