宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

論文『「絶版回収事件」と「252c等の公開」』

2021年10月20日 | 「賢治研究」の更なる発展のために
《『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)》

 この度、〝第74回岩手芸術祭〟に応募したものの、今年は見事に落選した。
 したがって、応募作品は『県民文芸作品集第52集』に載ることはないので、皆さんの目に触れてもらいたいと思って、拙ブログ上で紹介させてもらう。

 『宮澤賢治全集第十四巻』は、どうしてこんなとんでもないことをしてしまったのだろうか?

********************論文『賢治と露のために問う ―「絶版回収事件」と「252c等の公開」―』(1~10p)******************











********************************************** 以下はテキストタイプ****************************************************

  賢治と露のために問う ―「絶版回収事件」と「252c等の公開」―
                               鈴木 守
一 はじめに
 なぜだったのだろうか、筑摩書房(以後、筑摩と略称)ともあろう出版社がこのようなことを昭和52年にしてしまったのは。文学全集や個人全集等を出版し続け、良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩が、「賢治の書簡下書252c」のことを「新発見」と表現して、プライバシー侵害の虞もある関連下書群を公けにしたのは。しかも、これらの下書群を確と検証することもなしに推定し、さらにそれを基にして推定を繰り返した、人権侵害の虞もある推定群を公開(以下、この関連下書群の公開のことを「252c等の公開」と略記)したのは。ここ十年ほど、私はこれらの理由がわからず、ずっと悩み続けてきた。
 それがこのコロナ禍、倒産のニュースが流れることが多かったせいか、とある日、「あれっ、そういえば、あの頃筑摩も倒産したような気がする」というおぼろげな記憶が甦った。すかさず、もしかするとそれが一つの大きな原因だったのではなかろうかと直感し、一気に不安になった。

二 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」
 早速、インターネット上で少しく調べてみたならば、どうやらそのようなことがあったらしいので、筑摩の社史であるという『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)を注文した。手元に届いた同書を、私は慌ただしく瞥見した。不安は的中した。

 一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」したとき((一))…筆者略…

とあり、やはりあの頃(昭和53年)筑摩はたしかに「倒産」していたからだ。そこで今度は落ち着いて同書を読み直してみた。すると、次のような、

 一九七〇年代の筑摩書房は、目先の現金ほしさに紙型新刊を乱発するなど、必ずしも「良心的出版社」とはいいがたい実態があったし((二))、

とか、

 倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました。なかでも許しがたいのは「紙型再版」です。つまり、同じコンテンツの使い回し。紙型=印刷するときの元版を再利用して、あたかも新しい本であるかのように見せかけ、読者に売りつけようとしました。新世紀に入ると、食品偽装事件があちこちで発覚しましたが、紙型再版も似たようなものです((三))。

という記述があったので私は愕然とした。
 それはもちろん、「「良心的出版社」とはいいがたい実態があった」とか、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」などということを、自社の社史に直截的に書いていたからだ。ただし次に、これらの断定的記述は筑摩ならではの厳しい自戒の念と矜持が書かしめたのだろうということも想像できたので、心はやや落ち着いた。とはいえ、この記述内容は事実であり、これ程までだったのかと、ますます不安も募ってしまった。

三 「初めての絶版版回収事件」
 さらに同書には、「初めての絶版回収事件」という項もあった。これはとんでもないことだと直ぐ判った。表現の自由が尊重される今の時代、「絶版回収」ということは滅多にないはずだからである。そして、これが「腐りきって」いた事例なのかなと直感した。それは、この事件が昭和52年に、まさにその「倒産直前」に起こっていたというからでもある。ちなみに、同項には次のようなことが述べられていた。

 一九七七(昭和五二)年、筑摩書房にとって初めての絶版回収事件が起きる。臼井吉見の長編小説『事故のてんまつ』である。この小説は『展望』の一九七七年五月号(四月刊)に掲載され、五月末に単行本として刊行された。
 作品は、川端康成の自殺を題材にしたモデル小説である。川端康成は一九六八(昭和四三)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞したが、七二(昭和四七)年に自殺した。…筆者略…『事故のてんまつ』では、その動機についての臼井の考察が展開されている。
 しかし、小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、東京地方裁判所に出版差し止めの仮処分申請が出された。筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた。取次や書店に残っている本は回収し、在庫は廃棄処分とした。これを受けて遺族側は申請を取り下げた。
 この件には、ふたつの問題点があった。ひとつは、故人のプライバシー権に関する問題であり、出版差し止め要求で全面に出たのはこれだった。もうひとつは、差別に関わる問題だった((四))。

 さて、昭和52年に「絶版回収」されたのであれば、それから40年以上も経ってしまった今、『事故のてんまつ』の入手は困難かとなと思った。実際、それが載った『展望』の昭和52年5月号は入手できなかった。ところが、単行本の方は容易に入手できた。そして実際に同書を読んでみたならば、故人のプライバシー権や名誉毀損、そして差別問題に対する臼井の認識の不足が読み取れたので、これでは川端康成の遺族も憤りを感じたであろうことは私にも想像できた。しかしこの内容であれば、遺族から出版差し止めの仮処分申請が出されるということまでは……と多少違和感もあった。
 そこで、改めて同書を見直してみたならば、臼井はその「あとがき」の中に、

 本にするに当たっては、いたらなかった点に、朱筆を加えた。このことが、作品をいっそうひきしめることにもなると考えたからである((五))。

と書いてあった。ということは、『展望』掲載版を単行本化にする際に、臼井が大幅に書き変えた箇所があったに違いないと推測できた。
 そのことを確認したかったので関連図書等を探してみたならば、〝「事故のてんまつ」――『展望』五月号と単行本の異同一覧((六))〟という「疏明資料」が見つかったので、「朱筆を加えた」箇所等が詳らかになった。ちなみに、それらは15項目ほどあり、これらが「いたらなかった点」であると臼井が認識していた事柄であったということになろう。そしてそれらの中でも際立っていたのが、単行本においては完全削除されたという、『展望』5月号には載っていた野間宏と安岡章太郎の対談に関する次の部分である。

 野間 ……解放運動が以来の中で、どういう成果を生んできたかというと、現在差別はなくなったと考える人が出るほど大きい成果を生んでいる。
 しかし、差別はきびしくあって、差別語さえ使わなければいいというところにとどまっている。だから、就職の差別も、いぜんとしてある。
…(以下の部分は、川端康成の名誉等に関わることも書かれているから、筆者略)…
 安岡 おかしいね。

対談のなりゆきから察すると、先生がとつながりがあるとしか思えない。どう読みかえしても、そうとしか、とりようがない。対談者の間に、
暗黙のうち、その了解が通じているらしい話しぶりだ((七))。

 というのは、この「削除部分」の内容を読んだだけでも、臼井が故人となった川端の名誉を毀損し、差別を助長しているということが私にもほぼ判ったからだ。となれば、『展望』に掲載された改稿以前の『事故のてんまつ』を読んだ川端家の遺族が不快感を抱いたのはなおさらのことであったであろう。
 そして、単行本版『事故のてんまつ』を読んで気になっていたことの一つに「資料」もある。それは、同書の「あとがき」の中で、「川端さんの自殺のひきがねになったと思われる資料を入手した」とか「この資料を闇に葬り去るべきでない」と臼井が言うところの「資料」(傍点は筆者)のことである。実は、『事故のてんまつ』を読んでいて、同書に登場する「客観的な事実」の信憑性がどうも危ういのではなかろうかと私は危惧したのだが、それは臼井が言うところのこの「資料」のせいではなかろうかと感じたからだ。
 そしてこのことに関しては、『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)の中に、次のような長谷川泉の主張が載っていることを知った。

 (一)作品の素材と作品形成の過程
「事故のてんまつ」の素材となったのは「鹿沢縫子」の原話である。しかもこの原話は、川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏という伝達の経路を辿っている。臼井氏は「蔦屋」から取材したのであって、「当事者たる川端家の人間たちとモデルの女性」から直接取材したり、情報の提供を受けたものではない((八))。

 やはりそういうことだったのかと合点がいった。臼井が言う「資料」とは長谷川の言うこの「原話」のことかと、腑に落ちたからだ。よって、この「資料」とは、伝聞の伝聞そのまた伝聞(川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏というルートを辿っている)「鹿沢縫子」の原話にすぎないということが否定できず、そのせいで私は信憑性が危ういと感じたようだ。というわけで、臼井の言う「資料」は事実に基づいたものであるという保証はないし、検証されたものでもない。まして、一次資料でもない。そしてそのような「資料」を、

 「事故のてんまつ」が問題を安易に作品の肉づけに用いた軽率さは、井上靖氏や安岡章太郎氏らの警告にもかかわらず、しだいに社会問題化した。…筆者略…臼井氏が「資料」を五年間暖めた最大の理由がマスコミ界の「モデルさがし」を恐れるところにあったことが述べられているが、そこには差別問題に対する認識の浅薄さと配慮の不足が露呈されている((九))。

と、長谷川は指摘していて、私はそのことを肯わざるを得ない。
 しかも、この事件についての「総括見解」である〝「事故のてんまつ」をめぐっての報告と御挨拶〟が、『展望』(昭和52年10月号)に掲載され、その中で、

 たとえば作品にかかわる差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず、差別打破のための強く明確な場所に立っていたとは必ずしも申しがたい点がありましたことも、痛切な反省とともに、さらに認識を深めつつあるところであります((十))。

というように、「差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず」と、「株式会社 筑摩書房」の名で「痛切な反省」をしているから、なおさらにである。
 そして、先に引いたように、「小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、……筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた」ということで、昭和52年8月16日に和解が成立したのだそうだ。ちなみに、その際の「和解条項」の中には、川端の遺族およびモデル側に「ご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します」という臼井の謝罪もある。
 ただし、『筑摩書房 それからの四十年』によれば、

 この事件は新聞等でもセンセーショナルに報じられ、結果的に『事故のてんまつ』が三五万部のベストセラーとなったのは、なんとも皮肉なことというべきである。売上率はかぎりなく一〇〇%に近かった。
 これまで筑摩書房がもっていた売り上げ部数の記録は、正確な統計が残っているかぎりで、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(一九七二年)の三〇万部だった((十一))。

ということだから、実質的には「絶版回収」とは言い難い気がして、私からすればあまり後味はよくない。
 畢竟するに、最初は、先に述べたように私は、「「初めての絶版回収事件」という項もあった。……「腐りきって」いた事例なのかなと直感した」のだが、それは直感ではなくて、どうやら、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきっていた」ことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった。

四 「新発見の書簡 252c」等の公開
 さて、奇しくもその同じ昭和52年に筑摩から出版されたものとして『校本宮澤賢治全集第十四巻』もある。
 一般的には、同巻のメインは「宮澤賢治年譜」であるはずだが、巻頭に「補遺」があるので私には唐突さが感じられ、以前から訝っていた。そしてこの度、その頃既に筑摩は経営が傾いてきていたということを知ってしまった私には、このような構成は、筑摩としてはこの「補遺」によって世間の注目を浴び、経営危機に陥っていた同社を建て直そうと考えたからだということが否定できないという見方が、脳裡をよぎった。それは特に、その「補遺」の中で、「新発見の((十二))書簡252c」とセンセーショナルに表現して、関連する賢治の書簡下書群を公にしたことからも窺えた。
 しかしながら、このことに関しては、同巻の「宮澤賢治年譜」担当者でもある堀尾青史が、

 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね((十三))。

と語り、天沢退二郎も、

 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである((十四))。

と述べているから、どうも「新発見」とは言い難い。これでは、露が亡くなるのを待って公表した、ということをはしなくも吐露しているようにも見える。
 しかも同巻は、一般人である女性「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「(252cは)内容的に高瀬あてであることが判然としている」と公に断定((十五))した。その客観的な典拠も明示せずに、全く論理的でもなく、である。そのあげく、「推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか」と前置きして、「困難」なはずのものにも拘わらず、

⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)         
⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはき〳〵云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)

というように想像力豊かに推定し、スキャンダラスな表現も用いながら、以下、延々と推定を繰り返した推定群⑴~⑺を同巻で公にした((十六))。
 そしてこの時期を境にして、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる〈悪女伝説〉が〈高瀬露悪女伝説〉に変身して、一気に全国に流布してしまったと言える。よって時系列的には、筑摩がそれを全国に流布させてしまったと世間から言われかねない。
 一方で、私はあることに気付く。それは、「『事故のてんまつ』の出版」と「252c等の公開」の二つは次の点で酷似していて、
㈠ 両者とも、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」という、まさに倒産直前の昭和52年になされたことである。
㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年歿)、高瀬露(昭和45年歿)が亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、ともに事実ではない。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺である。
㈣ ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ ともに、スキャンダラスな書き方もなされている。
ので、この二つはほぼ同じ構図にあるということに気付く。
 ということは、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった、と先に述べたが、これと酷似した構図がこちらにもあったから、「252c等の公開」もまた、一つの「腐りきって」いた事例であったと私は判断せざるを得ない。

 ところで、この「新発見の252c」等の一連の書簡下書群に対して矢幡洋は、

 時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…筆者略…と露骨な命令口調で言う。
 露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている((十七))。

と論じていることを私は知った。実は賢治には(ただしこの引用文中の「露」は高瀬露であるとは言い切れないので、あくまでも「ある女性に対して賢治には」、という意味でなのだが)、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを矢幡は指摘していたのだった。そこで私は、このようなことを指摘している賢治研究家を初めて知って、目を醒まさせられた。
 振り返ってみれば、かなり以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があることが導かれることに私は薄々感付いていた。だが、実はかなりのバイアスが私には掛かっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい見解を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたことを覚った。そしてこのバイアスは、女性に対しては厳しく、男性(賢治)に対しては甘く解釈するという男女差別がなさしめるそれであるということにも気付かせてもらった。
 心理学の専門家である矢幡の、この書簡下書群についての客観的な考察に私は反論できなかった。しかも言われてみれば、従来の賢治像とは真逆のこのような「冷酷さ」は、賢治の詩、〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもたしかにあることを私は同時に覚れたから、賢治のこの性向はもはや否定できない。
 言い方を変えれば、「252c等の公開」は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人とは雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだ。にもかかわらず、その配慮も不十分なままに、同第十四巻が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージを覆す、このような冷酷さもあったということを、結果的に世に知らしめてしまったと言えるからである。

五 とんでもない悪女であるという濡れ衣
 さて、『事故のてんまつ』の出版に関わる故人の名誉毀損と差別問題については出版差し止めの仮処分申請が出され、筑摩と遺族側との話し合いの結果、絶版回収ということで和解したし、筑摩は「総括見解」も公にして詫びた。
 一方、これと同じ構図にあった「252c等の公開」の方はどうであったかというと、その公開後、〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布してしまったと言える。のみならず、賢治に関して実績のある筑摩が活字にしてしまったからなおのことであろう、件の推定群⑴~⑺は独り歩きしてしまって「事実」となった。その結果、その「事実」に基づいて少なからぬ賢治研究家等が露を「とんでもない悪女」と決めつけた論考等を著している実態がある。不公平で極めて残念なことだ。
 ただし、件の「新発見の252c」とか、「判然としている」とかの客観的な典拠がいくら調べても見つからなかったことなどから逆に示唆されて、この〈露悪女伝説〉は創られたものであるということを私たちは実証できたので、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森義真、上田哲、鈴木守共著、ツーワンライフ出版)においてそのことを公にした。
 なお、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは高瀬露だから露は悪女だと主張する人もいるが、その有力なモデルは他におり、それが露であることの蓋然性は限りなくゼロに近いということを始めとして、露が悪女であることの客観的な根拠は何一つないということを私は実証できたので、〈悪女高瀬露〉は濡れ衣だということを『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ社)』でも公にした。
 ところが、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかというその客観的な典拠を、筑摩は我々読者に相変わらず明示してくれない。したがって現段階では、「252c等の公開」は結果的に「とんでもない悪女であるという濡れ衣」を露に着せてしまった、と私は言わざるを得ない。

六 おわりに
 一方でこの「252c等の公開」によって、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから私は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
 というのは、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけだから、この実態が続けば、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露であったというのに、賢治は露に対して結果的に「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねないからだ。しかし、もしその悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられる。しかもそれは濡れ衣であったいうことを私たちは既に実証できているから、賢治と露のために筑摩に問う。
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかという、我々読者が納得できるそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公開」についても「総括見解」を公にしていただけないか、と。
 そしてそもそも、このような実態は理不尽なことかもしれないということに普通は気付くはずだから、それを看過してきたのは一出版社のみの責任ではなく、私たちにも少なからずある。だから今、『あなたたちも看過してきました。とりわけこれは他ならぬ重大な人権問題です。研究者としての矜持は一体どこへ行ったのですか』、と賢治から厳しく問われているのかもしれない。

〈注〉
(一)『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)八五頁~
(二)   同 一四六頁
(三)   同 三四八頁~
(四)   同 一〇九頁~
(五)『事故のてんまつ』(臼井吉見著、筑摩書房)二〇四頁
(六)『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)一〇七頁~
(七)   同 一一〇頁~ 
(八)   同 十一頁
(九)   同 十七頁
(十)『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)一一四頁~
(十一)  同 一一七頁
(十二)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)二八頁
(十三)『國文學 第23巻2号 2月号』(學燈社、昭和53年)一七七頁
(十四)『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)四一五頁
(十五)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)三十四頁
(十六)  同 二八頁~
(十七)『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)一五四頁~

            (完)

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 私は非専門家。
 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
 本書は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。
 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。
〈目次〉

〈はじめに〉




 ………………………(省略)………………………………

〈おわりに〉





〈資料一〉 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)   143
〈資料二〉 賢治に関連して新たにわかったこと   146
〈資料三〉 あまり世に知られていない証言等   152
《註》   159
《参考図書等》   168
《さくいん》   175

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