下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
「サラアなる女の伝説」(一九二八(ママ)?)
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
たまたま手に取った岡井隆氏の『文語詩人 宮沢賢治』(筑摩書房)の中に、「サラアなる女の伝説」という論考があり、 「〔残丘の雪の上に〕」に出てくる「サラアなる、女」とはだれなのか。…(投稿者略)…
さきに示したように、口語詩「〔うすく濁った浅葱の水が〕」は「一九二七、四、一八、」の日付をもつ。すなわち昭和二年の春である。その前年の大正十五年(昭和元年)は賢治三十歳、転機の年であった。その年の三月に花巻農学校の教諭をやめて羅須地人協会の活動に入る。そしてその羅須地人協会時代の賢治に近づいてきた女性の一人として高瀬露(明治三十四年生、昭和四十五年没)が伝説されている。
<『文語詩人 宮沢賢治』(岡井隆著、」筑摩書房)156pより>さきに示したように、口語詩「〔うすく濁った浅葱の水が〕」は「一九二七、四、一八、」の日付をもつ。すなわち昭和二年の春である。その前年の大正十五年(昭和元年)は賢治三十歳、転機の年であった。その年の三月に花巻農学校の教諭をやめて羅須地人協会の活動に入る。そしてその羅須地人協会時代の賢治に近づいてきた女性の一人として高瀬露(明治三十四年生、昭和四十五年没)が伝説されている。
というようにして始まっていた。
さて、まずは「〔残丘の雪の上に〕」についてだが、これは『文語詩稿 五十篇』の中の一篇であり、その中身は
〔残丘の雪の上に〕
残丘(モナドノツク)の雪の上に、 二すぢうかぶ雲ありて、
誰かは知らねサラアなる、 女ひとのおもひをうつしたる。
信をだになほ装へる、 よりよき生へのこのねがひを、
なにとてきみはさとり得ぬと、 しばしうらみて消えにけり。
<『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)54pより>残丘(モナドノツク)の雪の上に、 二すぢうかぶ雲ありて、
誰かは知らねサラアなる、 女ひとのおもひをうつしたる。
信をだになほ装へる、 よりよき生へのこのねがひを、
なにとてきみはさとり得ぬと、 しばしうらみて消えにけり。
というものである。
次に、「〔うすく濁った浅葱の水が〕」だがそれは次のようなものである。
一〇九三 〔うすく濁った浅葱の水が〕
一九二七、四、一八、
うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはいってから
二度雪が消えて二度雪が降り
いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
そのいたゞきに
二すじ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属する女たちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
それは信仰と奸詐との
ふしぎな複合体とも見え
まことにそれは
山の啓示とも見え
畢竟かくれてゐたこっちの感じを
その雲をたよりに読むのである
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)66p~より>
そして、後者に登場してくる「基督教徒だといふあの女」とは、「羅須地人協会時代の賢治に近づいてきた女性」という表現が果たした正しいかどうかは誰も検証していないはずだから私は何とも言えないが、その女性が高瀬露のことだということは私も諾うところであり、この露に関しては私も今まで何度か取り上げてきた(拙論「聖女の如き高瀬露」(『宮澤賢治と高瀬露』所収)等)。
そして、岡井氏は次のように続けていた。
(「〔うすく濁った浅葱の水が〕」)の「下書稿(一)」を、部分部分をたしかめるようにして読んでみる。
一〇九三 一九二八(ママ)、四、一八、
これがタイトルと日付である。
<『文語詩人 宮沢賢治』(岡井隆著、」筑摩書房)156p~より>一〇九三 一九二八(ママ)、四、一八、
これがタイトルと日付である。
えっ、「一九二七、四、一八、」ではなかったんだ。
続きへ。
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