宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

『事故のてんまつ』の場合と同様、「252c等の公表」の「総括見解」を

2023年12月03日 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 
鈴木 以前一度触れたことだが、矢幡洋氏は、あの「新発見の252c」等の一連の書簡下書群について、
 時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…筆者略…と露骨な命令口調で言う。
 露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている。
〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)154p~〉
と論じていて、実は賢治には、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを同氏は指摘していたのだ。そこで私は、このようなことを指摘している研究者を初めて知って、目を醒まさせられたのだった。
吉田 それは僕の場合もそうだよ。たしかに、あの一連の書簡下書群を改めて思い返してみれば八幡氏の言うとおりだなんだな。心理学の専門家である矢幡氏の、この書簡下書群についての冷静で客観的なこの考察に僕はぐうの音も出ないよ。
鈴木 ただし振り返ってみれば、以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があるかも知れないということに、実は私は薄々気付いていた気がする。
荒木 ほんとに、ほんとか?
鈴木 ……ほんのちょっとだけどね。が実は、私にはかなりのバイアスがかかっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい見方を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたのだと今にしてみれば思う。
吉田 言い方を変えれば、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人と雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだがその配慮も不十分なままに、『校本宮澤賢治全集第十四巻』が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから僕は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
鈴木 そもそも、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけで、この実態が続くと、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露であったというのに、結果的に、賢治は露に対して「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねない。その上、実は賢治には、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということを、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟という行為が世に晒してしまったと言われても致し方なかろう。
荒木 とどのつまり、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟によって、高瀬露のみならず賢治までもが踏んだり蹴ったりされたということだ。
吉田 ただし、この悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられるし、しかもそれは濡れ衣であったということを僕らは実証できている。
鈴木 そこで私は、論文『「絶版回収事件」と「252c等の公開」』において、賢治と露のために筑摩書房に次のようなお願いをしたのだ。
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかという、我々読者が納得できるそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公表」についても「総括見解」を公にしていただけないか。
と。 

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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