宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

「裸形の宮沢賢治」(相馬正一)

2015年12月25日 | 賢治の受容
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 この度、相馬正一の論文「裸形の宮沢賢治 《邪道》を生きるもの」に出会った。
 あれっ、この人の名前どっかで見たことがあるなと思ったし、タイトルにぎょっとしたのがまずは読み出したところ、
 宮沢賢治をどう扱うかということは、案外難しい課題である。すでに美化され聖化されてしまっている偶像を神殿から…(投稿者略)…
 しかし、この偶像化された賢治像に対して早くから異議申し立てを行ってきた人がいなかったわけではない。佐藤勝治『宮沢賢治批判』、国分一太郎『宮沢賢治』、中村稔『宮沢賢治』、中村文昭『宮沢賢治』などは、それ以前の聖化された賢治論に対して大胆な反措定を試みている。近年では小野隆祥『宮沢賢治の思索と信仰』、菅谷規矩雄『宮沢賢治序説』、上田哲『宮沢賢治―その理想世界への道程』など、従来の倫理過剰気味な賢治論の軌道修正をしながら、きわめてユニークな賢治論を展開している。しかも、これらの地道な軌道修正作業が地元の研究者の手でなされていることに注目しなければならない。都会人の作り上げてきた賢治像が土地の心ある人たちにある種の違和感をあたえているということは、随分早くから指摘されていたことである。
              <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、昭和61年)186pより>
というようなことが、その書き出しであった。
 改めて、賢治の偶像化ということはとうの昔からあったということを確認できたし、それを元に戻すということはきわめて困難なことなのだということが身にしみた。それと同時に、この困難な「軌道修正作業」が「地元の研究者の手でなされている」と、相馬は判断していたということを知った。はたして巷間流布している賢治像が「都会人の作り上げてきた」ものかどうかに関しては、私自身は検証していないから何とも断定できないが、少なくとも地元に住んでいる者としては「違和感」を感じやすいといことについては、私も否定はしない。それは、公には言われていないことでも知り得る機会とルートなどがあるからだ。さらには、その現場や現物を目の当たりにできることがまだ今の時点であれば可能なこともあるからだ。そして私は、相馬の「随分早くから指摘されていたことである」という最後の一言も「重い」と直感した。そこには、早い時点から問題視されていたのに、何ら改善も解消もされていないし、事態は全く進展していないということが読み取れるのではなかろうかと思ったからだ。

 続きへ
前へ 
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
                        【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】

 その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿