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305 賢治の肥料相談・設計の評価

     <↑『年表作家読本 宮澤賢治』(山内修編集、河出書房新社)表紙>

 では今回は宮澤賢治の肥料設計について少しく述べてみたい。
 「石鳥谷肥料相談所跡案内板」の説明から賢治の肥料相談の様子が垣間見えてくるが、実際の相談の中身や方法はどのようなものであったのだろか。おそらく次の賢治の詩に詠まれているようなものであったであろう。
  〔それでは計算いたしませう〕
   それでは計算いたしませう
   場所は湯口の上根子ですな
        …(略)…
   畦やそこらに
   しろつめくさが生えますか
   上の方にはないでせう
   そんならスカンコは生えますか
   マルコや、、はどうですか
   土はどういふふうですか
   くろぼくのある砂がゝり
   はあさうでせう
   けれども砂といったって
   指でかうしてサラサラするほどでもないでせう
   堀り返すとき崖下の田と
   どっちの方が楽ですか
   上をあるくとはねあげるやうな気がしますか
   水を二寸も掛けておいて、あとをとめても
   半日ぐらゐはもちますか
   げんげを播いてよくできますか
   槍たて草が生えますか
        …(略)…
   生籾でどれだけ播きますか
   燐酸を使ったことがありますか
   苗は大体とってから
   その日のうちに植えますか
   これで苗代もすみ まづ ご一服して下さい
   そのうち勘定しますから
        …(略)…
   さてと今年はどういふ稲を植えますか
   この種子は何年前の原種ですか
   肥料はそこで反当いくらかけますか
   
   安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは
   三十年に一度のやうな悪天候の来たときは
   藁だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか

     <『校本 宮澤賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>
この詩から推理するに、賢治の肥料設計は植物の生え方からそこの地質を判断したりしてのそれぞれの土地に見合ったものであり、稲作指導はきめ細かであり、その田圃の持ち主の考え方に対応した肥料相談であったに違いない。

 その仕事ぶりを佐藤文郷は「岩手県農会報」(昭和三年四月発行一八八号)の中で次のように報告しているという。
 最近二度ほど君の仕事を見たに、冬閑には農家の希望によつて学術講義に近村に出掛けて殆ど寧日がないとか、而して決して謝礼を受けない、昨今は旧土木管区事務所に出張して農家の相談相手となり肥料設計をして居る。数日前君の所謂店を訪問したるに箱の様な代用机三四脚の腰掛け其処で十四五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居た、非常に丁寧な遠慮深い農家達だと思つたに、是は皆無料設計で用紙なども自宅印刷なのであつた。自己を節するに勇敢で他に奉ずる事に厚いと噂に聞いて居る宮沢君は世評の如く誠にかざらざる服装で如何にも農民の味方の感があった」(佐藤文郷「農界の特志家/宮沢賢治君」)
    <『年表作家読本 宮澤賢治』(山内修編集、河出書房新社)より>
己が身を磨り減らしながら、何者かに取り付かれたように近隣の農民のために献身する賢治の姿が痛々しいほどである。なおさらその肥料設計が無償であったから、貧しい農民達にとってはすこぶる有り難く思えたのも当然であろう。それが故に佐藤文郷には”丁寧な遠慮深い農家達だと”見えたのであろう。

 さて肝心の賢治のこの肥料設計の評価に関してだが、『年表作家読本 宮澤賢治』には次のように書かれている。
 …賢治の肥料設計は、懇切丁寧で、しかも無料であったため、多くの人に感謝され、当時高く評価されたが、後に古いなどとも酷評された。それぞれの時点での評価はどうであったか。
 農学校・国民高等学校での教え子で、石鳥谷の肥料相談所で賢治に協力した菊池信一は次のようにいう。
 「その年(昭和三年)は恐ろしく天候不順であった。陸羽一三二号種を極力勧められ、主としてそれによって設計されたが、その人達は他所の減収どころか大抵二割方の増収を得て、年末には先生へ餅を搗いて運ぶとか云つてみんな嬉しがつてゐた。たゞだそれをきかずに、又品種に対する肥料の参酌せずに亀の尾一号などを作られた人々は若干倒伏した様だつた」(「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」)
 一方、農学校の元同僚であり、後、稗貫郡宮野目共働組合長を務めた阿部繁は、昭和三五年に次のようにいっている。
 「宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。(略)宮沢さんの場合、岩手県の農業を進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません。(略)農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いくらかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩手県の農業全般を高めたなどということはありません」(森荘已池『宮沢賢治の肖像』)

     <『年表作家読本 宮澤賢治』(山内修編集、河出書房新社)より>
 いままではつい宮澤賢治の肥料設計の実力はかなりのものであるとばかり思っていた。盛岡高等農林を出ているし、花巻農学校での実体験もある、稗貫郡の土性調査も行っているから花巻近隣の地質等を詳らかに知っていたはずだからである。その上、〝賢治と心平と森荘已池〟で触れたように
 詩とはちがつて農の設計には相当の自信がある積りだから
と賢治は言っていたということから、肥料設計に関しては賢治自身も相当自信を持っていたはず。それゆえ、賢治の肥料設計に従えば必ずや水稲は収量は増し、農家の稲作による収益も見ちがえるように上がるとばかり思っていた。

 ところがこの『年表作家読本 宮澤賢治』によるかぎり、実は賢治の肥料設計に対する評価は分かれていたのだった。

 一方、実は私自身も以前から
 賢治の肥料設計に従って金肥を施せばそれなりに収量は増すとは思うが、果たしてコストパフォーマンスはどれほどのものだったのか。
ということが気になっていた。そしてそれを定量的に検証してみる必要があるとも思っていた。次回はこのことを少し考えてみたい。

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