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はたして「昭和4年」、「露宛」なのか

《創られた賢治から愛すべき賢治に》
“昭和4年”とする根拠
荒木 ところでさ、今も「昭和4年露宛書簡下書」と言ったけど、そもそもなぜ“昭和4年”なんだ?
吉田 それに関してはだな、以前、『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)の方を用いて少し調べてみたことがある。同書によれば、まずは
 本書簡に書かれた賢治の病状は、昭和四年末ごろから五年はじめにあたるもので、かつ252cが四年十二月のものとみられるので、252a~252cはすべて四年末ごろのものと推定し
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)142pより>
と言うんだ。なお、ここで言う「本書簡」とは〔252a〕のことを指している。
鈴木 ただ疑問に思うのだが、その時の病状は〔252a〕には「左の肺にはさっぱり息が入りません」と書いてあるだけなんだよな。この一言だけでどうして「昭和四年末ごろから五年はじめにあたる」と判断できるのだろうか。
 実際、今『新校本年譜』を捲ってみているところなんだが、どこにもそんな病状の記載はないぞ。一体、何を拠り所にしたのだろうか。あるいは、たしかにその頃にそのような症状を呈していたかもしれないが、たとえば、急性肺炎になって病臥していた昭和3年末~昭和4年始めだって似たような症状があったはずだから、必要十分条件ではない。他の年の昭和6年や7年だってさえもあり得るだろう。
荒木 やはりここでもその根拠は明確ではないということか。ところでさっき、「252cが四年十二月のものとみられる」ということだったけど、それはまたなぜなんだ?
吉田 それか、それについては同書によれば、
 本書簡の本文としたものの用箋の罫面には250(昭和四年十二月十二日以降、同月中書かれたもの)の下書がある…(略)…両者の字体等はかなり似ているもので、どちらが先であるにせよ、日数の隔たりはさほどないものとみられる。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻』(筑摩書房)148pより>
と言っているから、こちらの「本書簡の本文」とは〔252c〕のことを指しているのだが、このこと、つまり「250(昭和四年十二月十二日以降、同月中書かれたもの)の下書がある」ことがその根拠であると言いたいのじゃないのかな。
荒木 な~んだ、それじゃ“一連の「書簡下書群」”がズバリ昭和4年のものであるということを示すような明確な根拠はないのか。
吉田 あることを推定して、また別のあることを推定してそれらの組み合わせでその信憑性を高めたいのだろうが、もともと信憑性が低いもの同士を組み合わせた場合にどれほどの信憑性が高まるのだろうか、正直心許ない。
鈴木 そうなんだよはっきりしていないことが多いんだ、この“一連の「書簡下書群」”に関しては。実はそんなこともあるので、先ほど挙げた“「新発見」の「書簡下書」”のそれぞれには《用箋》名も付記しておいたのさ。
 たとえば、
   〔252b〕:「丸善特製 二」原稿用紙
   〔252c〕:「さとう文具部製」原稿用紙
というように対応する。すると、この2通はともに一緒に見つかった「新発見」のものなのだが原稿用紙の種類が違うことが明らかになる。しかも、この“一連の「書簡下書群」”の《用箋》は調べてみれば、この〔252c〕以外は全て皆「丸善特製 二」原稿用紙であることが判る。
荒木 えっ、いずれも「昭和4年露宛書簡下書」ということなのに、なぜ〔252c〕だけが「さとう文具部製」原稿用紙なのだ。疑問だ?
鈴木 まして、『校本宮澤賢治全集第十四巻』の35pでは、
   252a~252cはかなり短い時期に連続して書かれたものとみられる。
と見定めているから、なおさらに疑問なのだ。もちろんさっき言ったように、〔252a〕も〔252d〕も《用箋》は「丸善特製 二」原稿用紙だ。
荒木 となればそうだよな、タイプの違う《用箋》が用いられているからな。
吉田 実は、それに関連しては僕も調べてみたことがある。この「さとう文具部製」原稿用紙が使われている書簡は他に何があるかと。すると、僕が大正10年以降の書簡について調べてみた限りでは、唯一
   〔250〕〔昭和四年 十二月〕鈴木東蔵あて
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房583p)>
のみが「さとう文具部製」原稿用紙なのだ。
 これも妙な話で、他にも「さとう文具部製」原稿用紙が使われた書簡の下書や、そのものずばりの書簡が少なからずあればそれは別なのだが、よりによってその極めて稀なる「さとう文具部製」原稿用紙が使われたのが他には〔252c〕だけだった。しかも、今話があったように、他の「丸善特製 二」原稿用紙タイプの「書簡下書」〔252b〕などと一緒になぜか見つかった。極めて不自然だ。
荒木 こうしてみると、
   “一連の「書簡下書群」”は「昭和四年末ごろのものであるという可能性もある」
と推定しているにすぎないのか。なんのことはない、結論を言ってしまえば
 「新発見」の「書簡下書」も、それらを含む“一連の「書簡下書群」”も、いずれにも“昭和4年”のもであるという明確な根拠はない。
ということなのか。な~んだ。

“昭和4年”であることの不思議
鈴木 しかも、〔252c〕には
 あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。
と書かれている部分があるのだが、「あゝいふ手紙」ということからは「複数の手紙」と解釈できるし、そして実際、続けて「前の手紙は…」と書き、「あとのは…」とも書いてることからは、賢治は「露と思われる人物に」2回は少なくともこの時に手紙を出していることになり、昭和4年末頃に複数回の書簡を二人は往復させていることになる。
荒木 しかしさ、昭和2年の半ば頃のことになるのだろうが、賢治は「癩病」であると詐病して、もしかすると顔に灰を塗ってまでさえも、拒絶したと言われている露と賢治との間に、複数回の書簡の往復があったというのか?
吉田 賢治は昭和2年の半ば頃から露を拒絶し始めたと言われ、一方で、昭和3年の伊豆大島行から帰った賢治は、
 あぶなかった。全く神父セルゲイを思い出した。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな<*>
と、伊藤ちゑのことを藤原嘉藤治に語ったということがよく知られている。そのような想いをそれぞれに抱いたと言われる賢治が、昭和4年末の頃になっても露に手紙を出していたということになる。賢治の心境がわからない。
荒木 普通そんあことはあり得なねぇべ。昭和2年の半ば頃から露を拒絶し始めたと言われている賢治が、それから2年以上も過ぎてしまった昭和4年の末にこったな手紙を書こうとしたというのか。こんなことしてだら、実は賢治は露に未練があったのではないベが、などと疑われかねない。こうなると、“昭和4年”と推定されていることが逆にかえって不思議になる。
鈴木 しかもそれも、この時になんと23通もの「書簡下書」を書き、あげくそれを残しているなんて普通あり得ない、という不可解さもある。
吉田 そうさ、普通そんな「書簡下書」、手紙の反故は即座に処分してしまうだろう。実際賢治だってこの書簡内で、相手に「(この手紙を破ってください)」と伝えているくらいだから、まして自分が書いたこのような男女間のもめ事を記した反故の場合にはなおさら賢治は即刻焼却処分等してしまうだろう。それがあろうことか後生大事に残されていた、それも2カ所に分けてということになるだろう。こんなことはあり得ないと僕は思うがね。
鈴木 そう、反故を残しておく賢治の心理が私にもわからなすぎる。賢治に来た来簡が一切ないというのにもかかわらず、反故が沢山残っている。あ~あっ、…この「新発見」事件に関してはあまりにも不思議なことだらけだ。
荒木 そうだよな、いくら「新発見」と銘打ったところで、肝心の「賢治年譜」の鍵を握る堀尾青氏が他の機会に
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
と言っていたということを知ってしまうと、どうもそれが本音と俺は思えるようになってしまっが、このことを併せて考えてみれば、この件はもっと複雑な事情があるのかもしれんな。
吉田 そこまで穿った見方は僕にはできないが、いずれ調べれば調べるほど疑問があとからあとから湧いてくるのがこの“一連の「書簡下書群」”だからこのことに関する詮索はもう止めにして、次は肝心なこと、この“一連の「書簡下書群」”がはたして高瀬露宛なのかどうかを検証しようよ。

<*:註> 藤原嘉藤治は『新女苑』において、昭和3年6月の伊豆大島行から戻ってきた賢治に関して、
 大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と述べている。

〔252a〕についての疑問
鈴木 それもそうだな。それでは、“一連の「書簡下書群」”は高瀬露宛のものだという確証もあまりなさそうだが、そのあたりのことを今度は考えてみようか。
 まずは〔252a〕ついてだ。
吉田 ちょっと待て。『校本宮澤賢治全集第十四巻』の考え方に従うならば、“〔252c〕が「内容的に高瀬あてであることが判然としているが」”と言い切ってそこから総てが始まっているから、〔252c〕の方を先に検討すべきかもしれない…がまあいいか。そのことはどうやらそれほど判然といているわけでもなさそうだから、アルファベット順にこちらから検討していくか。
鈴木 あっ、それもあったな。でも今の吉田の言あったので、やはり〔252a〕の方から検討していくぞ。
 この〔252a〕、またの名「不5」に関連しては、以前話題にしたように、その中には
 法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
             < 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)101pより>
という一文があり、この中の「法華をご信仰なさうですが」という一言から、はたしてこれは賢治が実際に露宛に書こうとした「書簡下書」であるかどうかについては多くの人が疑問に思っているところだろう。
吉田 そのとおりで、実際、例えば米田利昭氏は『宮沢賢治の手紙』の中で、 
 ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。(愛について語っているのだから男性ということはない。当時男は愛などは口にしなかった。)それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある。以上疑問として提示しておく。
              <『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223pより>
という疑問を投げかけている。
荒木 ということは、この疑問に対して筑摩は何も言及していないし、それに答えてもいないというわけだな。
吉田 なぜか、いまのところはそのようだ。

〔252b〕についての疑問
鈴木 それから、今のことほど重大な疑問ではないのだが、「新発見」の“〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書”の
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招(ママ)介くだすった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
 私のことを誰かが云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝りすぎたためこの十年恋愛らしい
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
についても多少疑問がある。
 もしこの〔252b〕も露宛の「書簡下書」であるとすれば、賢治は少なくとも
 南部様と仰るのはどの南部様が招介くだすった先がどなたか判りませんが
などというようなつっけんどんな書き方はしないと思う。
荒木 それはなんでまた?
鈴木 というのは、伊藤與蔵が次のような証言をしているからだ。
 ただ先生が病気で休んでいる時、お見舞いに行ったことがありますが、何の話をされた時でしたか覚えていませんが「法華経について知りたかったなら「高瀬露子さんが良い本を持っていますからお借りして読んでみなさい」と言われたことがあります。その本の名前は忘れましたが「日蓮宗の何とか」というような気がします。私は高瀬さんへ行ってその本をお借りして読み、先生に言われた農学校前の南部さんのお寺へ返しました。
             <『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社)42pより>
この証言からは、賢治は「法華経に関するある本」を露に又貸しし、與蔵はさらにそれを露から又借りし、結局最終的には與蔵が本来の持ち主の「農学校前の南部さんのお寺」に返したということがわかるからだ。
荒木 そうか、賢治と露との間には少なくとも共通に認識している「南部さん」が一つはあったと考えられるから、そんなつっけんどんな言い方をするわけはない、ということになるのか。それにしても、ということはやはりある時期賢治と露は案外良好な関係にあったんだ。
鈴木 あっそういうことか、流石荒木。賢治が「南部さんのお寺」から借りた本を露に又貸しするくらいだから、二人の間にはかなりの信頼関係があったとたしかに言えるからな。
吉田 しかしさ、つっけんどんだったのは露を拒絶するためにわざとそう言い放ち、とぼけたということかもしれんぞ。

「法華をご信仰」とあることへの疑問
荒木 そんな。賢治はそんな嫌味なことを言う人間ではない…はずだ。しかしもしそうであったするならば、少なくともある時期までは親密な関係にあった賢治が、その相手露に対してこんないい表し方をしていたということになるから正直がっかりだ。俺の尊敬する賢治がそんなことをするはずはないと思いたいんだが…。
 そうだわがった。もしかすっと、この「書簡下書」はだれかが偽造したものかもしれんぞ。そもそも前から感じてたのだが、〔252c〕を読んでみるとその文体はとてもじゃないが賢治のイメージからはほど遠い口吻だ、と。
吉田 おいおい物騒なことを言うなよ、たしかにそれは感じられるが流石に偽造はないだろう。興奮すんな。
荒木 じゃじゃまいったな、こんなときにダジャレかよ。
鈴木 いずれ、〔252a〕にせよ、はたまた〔252b〕にせよ、それが露宛のものだあると断定するためにはまだ乗り越えなければならないハードルがあるということだ。特に、米田氏が指摘している“ここは<法華をご信仰>とある”という疑問は乗り越えねばならないそれだ。これが解決できなければ、露宛の下書のだと断定したところで客観的な説得力は持ち得ないだろう。
吉田 僕も、一時期高瀬露が法華経信者になったということを客観的に立証できない限りは、この〔252a〕が露宛書簡下書であるとは断定不能だと思うね。
荒木 それじゃ、俺も異議がないから現時点での俺たちの結論は
 書簡〔252a〕と〔252b〕は、とりわけ〔252a〕について現時点では「高瀬露宛書簡」の下書とは断定できない。
ということで決まりだべ。
吉田 この“一連の「書簡下書群」”に対応する露から賢治宛の来簡がそれこそ新たに発見されるということなどがあってはじめてその信憑性が云々できるのであって、それが為されないうちはこれらが「露宛」のものだとは軽々しく結論できないだろう。
 今荒木が結論したように、とりわけ〔252a〕はそうだ。したがって、当然〔252a〕は今回の検証における資料としては使えないことになろう。
鈴木 そうか、やはりそうなのか。

賢治らしからぬ文体の〔252c〕
鈴木 ではいよいよ本丸の「新発見」の〔252c〕、『校本宮澤賢治全集第十四巻』が「内容的に高瀬あてであることが判然としている」ときっぱりと断言している〔252c〕について考えてみよう。
吉田 いやっ、鈴木が見つけたように〔252c〕と「新発見の下書(一)」は続き物であることはまず間違いないのだから、それらを繋げて先に名付けた
 〔改訂 252c〕
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。あの節とても教会の犠牲になっていろいろ話の違ふところへ出かけなければならんといふ時でしたからそれよりは独身でも〔明〕るくといふ次第で事実非常に特別な条件(私の場合では環境即ち肺病、中風、質屋など、及び弱さ、)がなければとてもいけないやうです。一つ充分にご選択になって、それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし。どんな事があっても信仰は断じてお棄てにならぬやうに。いまに〔数字分空白〕科学がわれわれの信仰に届いて来ます。……さて音楽のすきなものがそれのできる人と詩をつくるものがそれを好む人と遊んでゐたいことは万々なのですがあなたにしろわたくしにしろいまはそんなことしてゐられません。あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでになすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。これぐらゐの苦痛を忍ばせこれ位の犠牲を家中に払はせながらまだまだ心配の種を播く(いくら間違ひでも)といふことは弱ってゐる私にはできないのです。誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
で検討すべきだ。
荒木 誰だって、この二つは続き物だということは一読してみれば明らかだからな。
鈴木 そうか。では荒木、この中身についてどう思う。 
荒木 うん? 俺がか。賢治を尊敬している俺にとっては言いづらいところもあるが、まるで弱い者虐めをされているが如き露に配慮して…正直に言う。はっきり言って賢治らしからぬ点が多々ある。
 まず、文章構成がめためただべ。
 またその表現の仕方も、例えば
  ・などといふから悪いですな
  ・(よくお読みなさい)
  ・(この手紙を破ってください)
  ・私みたいなやくざなものをあてにして
  ・もっとついでですからどんどん申し上げませう
  ・あゝいふことは絶対なすってはいけません
 
等というようなそれらからは、今まで持っていた賢治のイメージからは真逆の印象しか受けない。
吉田 そうなんだよな、極めて違和感がある。誤解を恐れずに言えば、他の書簡とは違って今回の“一連の「書簡下書群」”、とりわけ〔改訂 252c〕からは
   尊大さ、上から目線、一方的、露悪的、軽薄さ、お為ごかし
などさえも僕には感じられ、正直やりきれなささえもある。あまりにも賢治らしからぬ文体の「書簡下書」だ。

「ただならぬ物言い」
鈴木 やはりそうなんだな。私もこれらからは、えっ! 賢治ってこんな文体の手紙を書くことがあるのかとがっかりした。
 そして同時にがっかりしてるのが、〔252c〕のことを『校本宮澤賢治全集第十四巻』が
   本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
と述べてはいても、今ここに至っても私には一体それはどこからそう判断ができるのかわからないからだ。二人はどうだ?
荒木 たとえば、
 それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし
とか、
 あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。
というようなことを実際に露がしていたという、他の証言や資料があればそうと言えるかもしれないが。
吉田 たとえば前者、いくら賢治の発言とはいえ「ただならぬ物言い」だ。こんなことが書かれているとこれを素直に読んだ人は皆、
   ・露には前の婚約者があった。
   ・しかも露はその人との婚約を破棄して、新たな相手と結婚しようとしている。
   ・賢治はそのような露に対して前の婚約者からはちゃんと了解を求めなさいとアドバイスした。
 はたまた後者からは、
   ・露は賢治に三日続けて手紙をよこしたり、
   ・夏から三ぺんも写真をよこしたりもした。
と受け取るだろう…
荒木 はたして本当に露にはそんなことがあったというのだべが。この部分を真に受ければ、露にとっては分が悪いところが少なくない。そのあたりどうなんだ鈴木?
鈴木 少なくとも上田哲は、『七尾論叢 第11号』においてそんなことがあったということなどはもちろん、そのような噂があったなどということさえも一言も述べていない。
荒木 となれば、この「ただならぬ物言い」はなかなか厄介者だな。

資料として載せるか否かの判断
鈴木 そこんなんだ。そのような数々のことが露にあったということを検証した上で、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したのであればいいのだが、ここまで調べてみてほぼ判るようにそうとは思えない。
 実はこんなことが過去にあった。『拡がりゆく賢治宇宙』の中に
 楽団名メンバーは
    第1ヴァイオリン 伊藤克巳
       …(略)…
    オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
               <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79pより>
という記述があった。私はこれを見つけて喜んだ。それは、例の楽団に時に千葉恭も加わったいたことを知ったからだ。
荒木 どういうことだ?
吉田 それはさ、2年4ヶ月にわたる羅須地人協会時代、賢治は一般には「独居自炊」といわれているが、実はある期間少なくとも半年間はこの人物と一緒に暮らしていたのだ。そのことをほら、鈴木は以前自費出版した『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』で検証したわけだ。
鈴木 それでその際に不思議に思ったことが、賢治も含めて周縁の人たちの誰一人として千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らしていたという証言や資料を残していなかったことだ。
 ところが、この『拡がりゆく賢治宇宙』にこのように書いてあったのだから、誰かが千葉恭はあの楽団のメンバーの一人だったということ、つまり下根子桜の賢治の許に時に来ていたということを示唆していると思ったのだ。そこで私は、その出版元『イーハトーブ館』に問い合わせた、この出典はなんですかと。するとその答えは、あれは間違いです、というものだった。
 ならばと思って、私は次にこの部分の執筆者を探して、その人に訊いた。すると彼はこう言った。
 あれは、私が平來作から直接聞いたことです。ところが、千葉恭については他の人の証言がないからということで、『賢治年譜』には載っておりません。
 そこで私は思った。そうか、流石『賢治年譜』。資料として載せるか否かの判断は厳しいんだと。なお念のため『新校本年譜』を見てみると
 しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり、時によりふえたり減ったりしたようである。
             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)314pより>
となっていた。一体、平來作や渡辺要一の場合にはどんな他人の証言等があって載ったのかは知らないが、肝心の千葉恭の名前だけがすっぽりと抜け落ちている。
 そこで私もその徹底した態度を見習って、
 一人の証言だけとか、一つの資料だけとかに基づいて賢治の伝記研究をしてならないのだ。
と改めて覚った。
荒木 ということは?
吉田 千葉恭の場合にそこまで徹底しているのであれば、先ほど僕が列挙した事柄についてもちゃんとその他の証言や資料を基にして検証しろと鈴木は叫びたいのさ、たぶん。
荒木 それはたしかにそうだろう。それでないと『賢治年譜』は自家撞着している。
鈴木 なお、千葉恭の息子さんから直接聞いたことだが、『父はマンドリンを持っていました』ということだったから、先の『拡がりゆく賢治宇宙』の記載はまず間違いないと思っている。つまり平來作は、千葉恭はたしかに時に下根子桜に来ていたということをかなりの確度で証言していることになる。

来簡が一通も存在しないという不思議
吉田 だからこそ、この「新発見の252c〔高瀬露あて〕」を活字にして公にした出版社は、これに対応する露からの賢治宛来簡を見つけ出す最大限の努力をせねばならない。しかるに現時点ではこの出版社は、賢治に来た書簡はいまだ一切載せておらず、賢治が出した書簡ばかりを載せている。しかも、来簡を一切載せていないというのに賢治の書いた書簡下書、手紙の反故さえも載せている。これでは、あまりにも不公平なことであって、しかも賢治からの往簡だけではその書簡の内容の信頼性は担保されているとは言い難い。まして反故であればなおさらそうなるだろう。
鈴木 そう、不思議なんだよな。あれだけの膨大な全集をあの出版社は何度も出版しているのに、
   なぜ賢治宛の書簡、来簡が一通も存在しないのか。
という大問題については、私の知る限り同社出版の全集のどこを開いて見ても全く論じられていない。一体この大問題を同出版社は究明する気があるのだろうか。
吉田 またこのことについては、賢治のことをある程度知っている僕の周りの人は皆そう言う、『なぜないんだ。ないわけがないだろう』と。このような声があることを宮沢賢治研究家が知らないのだろうか。よしんば知らなくても、澤賢治研究家自身が疑問を持たないわけがなかろう。なぜ賢治研究家たちはそのことについて公的に大々的に論じ合うことをせず、あるいは看過してきたのだろうか。僕とすれば極めて不可解だ。
荒木 そうなのか、おれはついつい「書簡集」には往簡も来簡もどちらも載っているものとばかり思っていた。来簡が一通も存在しないというのは極めて不思議だ。あれっもしかすっと、来簡がないということではなくて、来簡はあるけど何らかの事情があった載せていないということではないべが。
鈴木 たしかにある雑誌に、来簡があるのは公然の秘密だなんてことを言った人の発言が載っていたっけ。
吉田 僕は、賢治宛の来簡は何らかの事故があって一切なくなってしまったというのならばそれはそれでやむを得ないとことだと思う。しかしあれだけの膨大な校本全集を出しているのだから、それならばそのことについて究明した論考や納得のいく説明を同全集に載せてしかるべきだと思う。
荒木 そりゃあそうだよな。来簡があるならば公開すべきだ。そうしないと、賢治からの往簡だけが公開されたことによっ不利益を受けた人も当然いただろう。まして、「露あてであることが判然としている」と言い切って〔252c〕などの「書簡下書」を公にされたがために露はすこぶる不利益を被っているのだから。あるいはもし、来簡が一切現在はなくなってしまったというのならば、せめてその顛末を明らかにすべきだべ。
吉田 そうだよな、“一連の「書簡下書群」”を高瀬露のものであるなどと言って安易に活字にした出版社の罪は大きい。
鈴木 おいおい、そんなことまで言っていいのか。
吉田 少なくとも僕はそう思っている。露にはもはや為す術がないのだから…。
荒木 わがったわがった、そんなにしょぼくれるな。俺だって、ここまでにいろいろなことを知った上は露の汚名を雪ぎたい。露が「悪女」でないことはもはや明らかだし、<仮説:高瀬露は聖女だった>も今までは検証に耐えてきたのだから。

露以外の女性である可能性
鈴木 では次。私は
 その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。
という賢治の発言部分にも看過できない問題点があるということを改めて主張したい。
 以前にも触れたようにこの部分からは、賢治が下根子桜にいた時について、
 わたしには品行上でいろいろな事があった。それも女性問題でもだ。わたしは買い被られているだけで、それが疑問に思うならば慶吾はそのいろいろな事を知っているから訊いてみるといい。いまは、女性問題のことでもう両親を苦しませたくないのです。
と言っているとも読み取れる。ということになれば、この時の書簡の相手とは露でない女性であろうと考えられる。なぜならば、その頃の出来事についてはしばしば賢治のところに出入りしていた露なのだからかなりの程度のことは知っていただろうし、露と慶吾は露が下根子桜にやってくる前から比較的懇意だったのだから、慶吾からある程度のことを聞き知っていたと考えた方が自然だろうと思えるからだ。
 また一方で、これも以前言ったように当時下根子桜に出入りしていた女性には露以外にもいるという関登久也の証言『協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、』もあるからだ。
 そうすると、そのような露に対して、そのような状況下にあったとも考えられる賢治がこのような手紙を書こうなどとすることはあまりあり得ず、その相手は露以外女性だと考える方が妥当だろうと思えるのだ。
吉田 僕は、この〔改訂 252c〕については時期的な点での疑問もある。それは、次の
 あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。
におけるものだ。
 たとえば、この中の「あなたが根子へ二度目においでになったとき」とは、もしこれが露宛のものだとすれば、露が二度目に下根子桜を訪れた時期は大正15年の秋頃のことであることはほぼ間違いない。ところが賢治はよりによってその頃の出来事を、それから3年以上も経った昭和4年末にまたぞろほっくり返したということになるのか。
 また、「今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになった」の部分に注目すれば、下根子桜に出入りしていた露がその頃に「三ぺんも」よこしたことになる写真の話を、同じような期間を経てから昭和4年末になって再び持ち出して、この期に及んで「あゝいふことは絶対なすってはいけません」というように今度差し上げた手紙で賢治が諭したということになるのだが、そんなことがあるものか。
 下根子桜であれだけ世話になった露に対して、大分時間が経ってしまった昭和4年末になってから弁解がましく言い訳をし、しかも最後にしれっとして、「あゝいふことは絶対なすってはいけません」と言うのか。僕だったならば、そんなお為ごかしみたいなことなどは絶対言いえない。
荒木 わがったわがった。いつもは冷静な吉田なんだからそんなにいきり立つな。
吉田 ……そうだったな、ちょっと賢治のこと責めすぎたか。
鈴木 え~と、この文の構成から言えば、「三ぺんも写真をおよこしになった」という写真は、「今度あの手紙を差しあげた」という手紙を出したことになる「昭和4年末」からそれほどさかのぼらない時期に賢治に「およこしになった」、そう解釈するのが私の言語感覚だけどな。こんな事いくら何でも本当に賢治は露に伝えたというのだろうか。
荒木 いぐらなんでも、昭和2年の半ば頃からは拒絶するようになったと言われている女性に対して、賢治がこんな間延びした内容の手紙を出すわけはねぇべ。
 ここは、吉田の言うとおりで、時期的、時間的な無理があるということがよぐわかった。そんな無理な解釈、〔252c〕は高瀬露宛のものだという解釈よりは、この〔改訂 252c〕あるいは〔252c〕の宛先は少なくとも高瀬露を除いた女性であると解釈した方がはるかに説得力がある。
鈴木 ということで、私たち3人の結論は
   〔252c〕の相手の女性は高瀬露以外の女性である可能性が大である。
ということでいいよな。

〔252c〕は検証の資料たりえない
荒木 それから俺は思ったのだが、今吉田が取り上げた部分と一部重複するけど、
 あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。
の部分は、他にもいろいろな問題を孕んでいる。
 たとえば、もしこの内容が事実だったとすれば、賢治はこの女性が下根子桜に来た2回目で早くも『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』ということを軽はずみに言ってしまったことになるからだ。
吉田 もしこの発言が事実であったならばそれは取り返しのつかない一言となっただろうな。そしてその続きの弁解の仕方だって言い方がきつくて賢治には申し訳ないが、「さもしい」とさえも言えなくもない。
荒木 たしかにそれはきつい言い方だな。とはいえ、だからこそ思うのだ、もしかするとこの〔252c〕はやっぱり賢治が書いたものではないのではないのかな、偽造だとまではもう言わないけれどもさ。
 だってさ、さっき俺は『露にとっては分が悪いところが少なくない』と言ったけど、もしこれが正真正銘賢治が書いたものだとすれば、それどころか遙かに賢治の方が分が悪いことになるだろう。
吉田 まずい。僕もいつの間にか荒木の考えがもしかするとあり得るかなと思い始めている。いやいや、…でもそれはやはりないな。このとき賢治が下書に書いた内容は事実だったのだ。だからこそ賢治は父政次郎から厳しい叱責を受けたのだと、こう考えれば辻褄が合う。
荒木 う……よっしゃ。もはや事ここに至ってしまっては俺も腹を括るしかない。俺が、賢治が書いたものではないかもしれないなどと妄想してしまう訳は、俺が抱いている賢治像を基にして考えているからだ。これからは、このような分の悪いこともあるのが賢治だと思えばいいのだ。
鈴木 こうしてみると、〔252c〕にはあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎるから、現時点では賢治の伝記研究上では資料たり得ない。これに対応する露からの賢治宛書簡等の客観的な資料が見つかった上で検証し、その後に始めて資料たり得るかもしれないということにせざるを得ない。
 だから私たちの現時点での結論はこうだ、
 〔252c〕を含む“一連の「書簡下書群」”にはあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎて、信頼性に著しく欠けるので今回の検証における資料としては使えない。
吉田 裏返せば、〔252c〕は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」とは言われても、どこが判然としているのかそれが全く判然としない、と結論せざるを得ない。
鈴木 それでは、大体これで“一連の「書簡下書群」”についての検討はほぼ終えたので、最後のまとめに入ろうか。
吉田 いや一言だけ、それは従前の「不6」についてだ。その中に
 なぜならさういふことは顔へ縞ができても変り脚が片方になっても変り厭きても変りもっと面白いこと美しいことができても変りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなる(ママ)です。大いにしっかり運命をご開柘(ママ)なさいまし。
という箇所があるが、賢治が『牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなる』等ということを普通言うか? 『…ははは、…』と。
鈴木 そうなんだよな、私も気になったいたところだ。まさかこんな言い方を賢治がするなんて、と。
荒木 あ~あ、吉田には駄目押しをされてしまったな…。よ~しわがった。《創られた賢治から愛すべき賢治に》でいいのだ、と考えればいいのだ。それも賢治なのだ、と。

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