>要は、これがセザンヌの遠近法なのだ、といってしまうことだ。この規矩の律するところでは、なるほどあの「丸み(モドゥレ)」も大事ではあろうが、ただしそれは個々の事物の、外から眺められる形態ではなく、目の前の全景――これが自然と呼ばれる――が丸みを有しながら、むしろ「中心」たる自身のほうから見て凹んでいる状況が、指示されるのである。(略)その読みを押し進めていけば――「が正しいのであれば」とは書かない――、セザンヌにとって画布とは、自身の視線をつねに垂直に受けとめてくれる、凹型に湾曲した、世界の内壁面の見立てだった、とする解釈を帰結することも許されるであろう。(上田高弘氏の論文『セザンヌの手紙を/から読み直す』から抜粋)
荒川修作の「養老天命反転地」は、凹型に湾曲した「楕円形のフィールド」の内に造られている。これが「眼の底」でなくて何だというのだろうか。しかも施設の全体から見れば「涙腺」まで付いているのである。「涙」は「輪郭線を破断」する。
>さて、ならば眼前に広がるさまざまな事象はそれに反して、むしろ画家からの視線をすり抜けさせる、そんな後方へと回り込んでいく側面を有する。この側面――これが輪郭となる――を立ち上がらせ、すなわち、こちら=「中心点」たる画家自身へと向かわしめること。彼の油彩による未完成作品や水彩画に顕著にみられるような、描かれた像の輪郭の部分に多く筆が運ばれ、結果的に線が断片化すること――専門的にはこの「技法」はパッサージュ(passage=「通路」の意で、輪郭線の破断によって形態の内と外が通じてしまう事態を指す)と呼ばれたりする――の、これはけっこう説得力ある説明となりはしないか。あるいはこれこそは、池上氏の表現にみえた「丸みを小さな平面の集積に置きかえ」という事態に、ほかならないのである。(同上)
(続く)
荒川修作の「養老天命反転地」は、凹型に湾曲した「楕円形のフィールド」の内に造られている。これが「眼の底」でなくて何だというのだろうか。しかも施設の全体から見れば「涙腺」まで付いているのである。「涙」は「輪郭線を破断」する。
>さて、ならば眼前に広がるさまざまな事象はそれに反して、むしろ画家からの視線をすり抜けさせる、そんな後方へと回り込んでいく側面を有する。この側面――これが輪郭となる――を立ち上がらせ、すなわち、こちら=「中心点」たる画家自身へと向かわしめること。彼の油彩による未完成作品や水彩画に顕著にみられるような、描かれた像の輪郭の部分に多く筆が運ばれ、結果的に線が断片化すること――専門的にはこの「技法」はパッサージュ(passage=「通路」の意で、輪郭線の破断によって形態の内と外が通じてしまう事態を指す)と呼ばれたりする――の、これはけっこう説得力ある説明となりはしないか。あるいはこれこそは、池上氏の表現にみえた「丸みを小さな平面の集積に置きかえ」という事態に、ほかならないのである。(同上)
(続く)