SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

Yang Zhenzhong "I will die" Biennale

2007年11月19日 | Weblog


 今年のベネチアでも評判を取っていた中国の作家ヤン・ジェンジョン(楊振中)の映像作品『私は死にます(I Will Die)』のひとコマに、もしあの「私は死なない」の荒川修作が紛れ込んでいたとしたら、これは普通に洒落にならないだろう。ジェンジョンのこの作品の正式タイトルは“(I Know) I Will Die" (私は自分が死ぬことを知っています)である。もちろん登場する人々が、それを事実として知ってはいても、権利として信じてはいない(つまり真に受けてはいない)ことはあきらかである。「私は死にます」という言葉は一見とても消極的で受動的なものに思えるが、しかし事実に対して強い否定的権利を行使しているという意味において、実はとても積極的で能動的な言葉なのである。ならば反転的に荒川修作の「私は死なない」という言葉は、消極的ではないしても大いに受動的で、そして何よりも「無防備」なものとして考えられる。なにしろ「私は死なない」という言葉は「私は死にます」とは違って、あるいは独りでは言うことのできない言葉であろうからだ。とはいえここで、死を真に受けないジェンジョンのユーモアと、不死を真に受ける荒川修作のシリアスとを比較検討している余裕はない。ジェンジョンの作品が複数のプロジェクターを使用したビデオイメージのインスタレーションであることから、そこに何か以外な共通点が「反転」を通じてあるような気がしてならないのだ。ていうか何か基本的なレベルで理解を間違っている気もするが(爆)。