それが池田のアニキのブログだからといって、いつも「正論」であるとは限らない。それどころか「Culture」のカテゴリに分類された投稿のほとんどは、それが門外漢による頓珍漢な意見であるということを配慮してもなお、失笑を禁じえない内容のものばかりだ。2006-09-23の投稿で池田のアニキはあの平野啓一郎氏の芥川賞受賞作『日蝕』(1998年)をめぐる「盗作疑惑」にふれ、集団的選択理論をふまえた「みんなの意見は必ずしも正しくない」という懐疑主義の必要性を説くことで、どういうわけだか平野氏の「独創」を擁護している。だが実際、その作品が盗作であるか否かは、さしたる問題ではない。平野氏のブログに発表された声明を読んでもわかることだが、彼はおよそ盗作などするような悪い人間ではない。まったく真面目に、誠実に、やましい考えなどいっさい無しに、自己の「芸術」と真正直に向き合おうとしている作家である。しかし、だからこそ問題なのだ。芸術文化に対する悪意など一切無いからこそヤバいのである。もし『日蝕』が実はある種の「トロイの木馬」であったとしたら(それにしても安易な木馬だが)、そのほうがむしろよかったのである。そのほうが「みんなの意見は必ずしも正しくない」という懐疑主義の必要性を平野氏自身が実践的に説くことになったろうからだ。平野氏は盗作疑惑が浮上した当時、「何がどうなってそういうことになったのかが、サッパリ分からなかった」と困惑したらしい。だが『日蝕』が芥川賞を受賞したとき、多くの(マトモな)評論家や読者は、同じように「何がどうなってそういうことになったのかが、サッパリ分からなかった」のである。どうしてあのような「ファンタジーノベル」が日本文学の最高賞を受賞してしまったのか。平野氏に悪気が無いとすれば、問題は「権威」のほうにこそあるのだ。権威の側が、懐疑主義にもとづいて、事実や論理をチェックするしくみをキチンと整備しておけば、『日蝕』が芥川賞を受賞するなどという「悲劇」は起こらなかっただろう。平野氏の「名誉」も大事だが、いま、それ以上に芥川賞という「権威」こそ大事に守らなければならないのである。ところで池田のアニキはよく「該当書をよく読んでから意見してください」とコメンターに釘をさすが、自分は『日蝕』をよく読んだうえで意見しているのだろうか。まさか『日蝕』を読んで感動したなんてことはないだろうな。でも池田のアニキの趣味なら、十分にありえるかも(藁