博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

灼熱の惑星

2008年12月22日 | 宇宙開発・天文
(昨日の続き)
 実際の金星の姿が分かってくるのは、「火を噴く惑星」が製作・公開された翌年からでした。
 金星はアメリカ、旧ソ連共に月以外で最初に目指した天体でした。1961年という早い時期(ガガーリンによる最初の有人宇宙飛行の年でもある)に旧ソ連は最初の無人金星探査機ベネラ1号を打ち上げています。この最初の探査機は金星まで10万キロ(地球から月までの距離の約4分の1)まで接近しましたが通信が途絶しました。翌1962年8月にアメリカの無人金星探査機マリナー2号は金星に35000キロまで接近し、温度測定などに成功しました。その結果、金星表面は摂氏400度以上の高温であるらしいことが分かってきました。人々の金星に生命がいるという期待は萎みはじめました。
 旧ソ連はその後も金星探査を継続し、1965年にはベネラ3号を打ち上げます。ベネラ3号は金星へ向かう途中で通信途絶しましたが、1966年3月1日に金星へ衝突としたと推定されています。これが人類が月以外の天体に最初に送り込んだ人工物ということになります。その後のベネラ4号、5号、6号は無事金星に到着し、着陸船を金星表面に降下させましたが、3機とも降下の途中で通信が途絶してしまいました。ソ連の設計技術者が想定していた以上に大気圧、気温が高かったことが原因でした。無事着陸に成功したのは1970年8月に打ち上げられたベネラ7号でした。それでも着陸船が地表に到達して23分後に通信途絶が起こっています。それほど金星の表面は過酷な世界だったのです。
 表面の写真撮影に成功したのは、さらに5年後のベネラ9号(1975年6月8日打ち上げ)でした。1981年打ち上げのベネラ13号では表面のカラー撮影に成功しています(写真:ベネラ13号の撮影した金星表面のカラー写真、手前のギザギザはベネラ13号の足。JAXA宇宙情報センターのサイトから引用させていただきました)。最初のベネラ計画が始まって実に20年が経過していました。
 このように根気強く進められた金星探査の結果、金星表面の気温が摂氏500℃、表面気圧は90気圧(地球の海の900mの深さの水圧と同じ)、雲の成分は硫酸という過酷な環境であることが分かりました。こんな過酷な環境なので、「火を噴く惑星」のような金星への有人探査はこれまでも行われていませんし、計画も存在しません。宇宙飛行士を搭乗させた着陸船を表面に降下させることは不可能でしょう。仮に潜水艦のように頑丈な着陸船を降下させたとしても船外活動ができないのではどうにもなりません。
 ただ以前、このブログでも書きましたが、金星の高層大気には生命が存在してもおかしくなはないという説があります。高高度であれば気温も気圧も低いからです。厚い雲層の上辺りであれば、地球の熱帯程度の気温と推測されています。実際に金星の高層大気を有人探査すると言う構想はあったようです。飛行士はむき出しの気球のゴンドラに乗ってワイシャツを腕まくりして、酸素マスクだけ口に当てるという軽装備で可能という話でした(硫酸の水滴が気になりますが雲の上であれば大丈夫でしょう)。それはそれで楽しい探検になるかもしれません。 

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1 コメント

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有人金星探査 (じゅんじ)
2009-03-16 00:42:44
金星高空の有人探査!!!
私、空想では、ソレ出来ないかなと思ったことがありましたが、計画が実在したとは!!!

今調べてみると、アメリカはアポロ計画の後、有人金星フライバイや有人金星周回を検討したようです。高空有人探査は、今のところ見つかりませんでした。
機会があったら、詳細に触れていただきたいです。

小HPでは、ソ連の「TMK計画」(火星・金星接近飛行計画)も扱っています。卓上のプランだけで終わったアメリカと異なり、ソ連では本気で検討され、打ち上げロケットは月面着陸用へ、宇宙船はサリュート・ミールへと発展しました。
宜しくお願いいたします。但し、1章と4章は、私の主観です。


http://homepage3.nifty.com/junji-ota/Planet.htm
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