博多住吉通信(旧六本松通信)

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ソフィストとは

2013年01月25日 | 読書・映画

(昨日の続き)

 ソフィスト(sophistēs)とは、紀元前450年頃から404年頃まで、ギリシャのアテナイを中心に富裕層の若者を対象に有料で「徳」を教えて回った人々を指します。プロタゴラス、ヒッピアス、ゴルギアス、プロディコスといった人々が知られています。ソフィストというと詭弁を弄して人々を惑わせるもの、高価な授業料を取って富裕層の若者に詭弁の弄し方を教えるものというイメージがあります。私もそんなイメージを持っていました。実際に、不倫を堂々と正当化し人々をうまく丸め込んだり、祖国アテネを裏切って敵国のために働くことを、これまた堂々と正当化したりする弁論の例が本書の中で紹介されています。著者はそうした現代の一般的なソフィスト観が、実際に事実だったのか、なぜそういうイメージが形成されたかを当時の文献資料を基に検証を進めていきます。

 まず人々に「徳」を教えるという商売がなぜ成り立ったのかという問題。ここでいう「徳」とは、ある事の正しさを他者に訴え、理解を得て支持してもらう能力といった意味のようです。古代ギリシャでは次第に民主主義が確立し、かつては貴族や富裕者などに独占されていた政治のリーダーの地位が、家柄や富だけでは得ることができなくなっていました。貴族の子弟も、自分の主張を民衆に理解してもらい支持を得ることができなければ政治のリーダーにはなれなくなったのでした。そこで貴族や富裕者の子弟にそういう能力―「徳」を教える商売が成り立つようになったということだそうです。

 著者の指摘では、ソフィスト達が貴族や富裕者の子弟に教えていた「徳」とは、「民衆が何となく正しいと思っていることを、巧妙な弁論で説く技術」だったということでした。ソフィスト達自身は、何が本当の「徳」なのかを考えつめることはなかったし、ソフィストの一人プロタゴラスは実際にかなり正直にそのことを公言していました。「私は徳を教える訳ではなく弁論の仕方を教えるのだ」と。当時の哲学者ソクラテスなどはこういう姿勢とは正反対の考え方を提唱したわけです。例えばこうです。よく考えてみると、何が本当の「徳」なのか実は自分は分かっていないということが分かった。では本当の「徳」とはなんだろうかということを改めて考えてみる。こういう姿勢は「無知の知」として今日知られています。

 ソフィストのやり方ですと本当の「徳」とは何かを考えることはなくなってしまいます。他にも問題が出てきます。「民衆が何となく正しいと思っていること」を吹聴すれば民衆の支持を得ることは確かにできるでしょう。でもそれが本当に正しいとは限らないですね。

 いかがでしょうか、なんだか21世紀の現代の政治への批判にも通用しそうではないですか。


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